『つくられた放射線「安全」論──科学が道を踏みはずすとき』(島薗進著・河出書房新社)


9784309246130

 「3.3 福島原発災害に学ぶ─福島・首都圏の集い」でもパネラーの多くから指摘されていたが、いま福島県内では、「除染・帰還」政策やそれに沿った「安全・安心」キャンペーンが積極的に進められている。高線量地域でも除染すれば元通りに住めるようになるし、空間線量が年間20mSv以下なら、子どもも含めて健康に影響がないという「低線量=安全・安心論」がその政策の根拠になっているようだ。

 全県除染の実現可能性はここではおくとしても、はたしてこうした安全・安心論はどのような根拠を持つものなのか。

 宗教学者の島薗進氏は、「3.11」の衝撃を受け、あらためてヒロシマ・ナガサキからチェルノブイリを経てフクシマに至る、放射線健康影響についての研究史を勉強し直した。「放射線健康影響の専門家とはどういう人たちで、どのような根拠に基づき、どれほど確かなことを言ってきたのか」──本書はその検証の記録である。

 ちなみに宗教学と放射線は直接のつながりはないが、それでも氏には医学史に関する著作があり、また科学における倫理問題は宗教学者としてはもちろん、「3.11」以降の知識人として避けることのできない課題だという認識がある。学生時代に遭遇した東大医学部闘争がそうした倫理を問う背景になっていることを、氏はたびたび公言している。原子力=安全・安心神話が一瞬で崩れ、科学者たちの言っていたことがウソであったことを、日本人すべてが眼前にしたいま、知識人としてこの問題を問うのは当然のことともいえよう。

 例えば、現在も多数の科学者によって支持される「低線量しきい値なし」説(LNT仮説;少量の放射能でも健康被害は起こりうるし、そこから以下は安全という目安はないとする説)を覆すために、電力中央研究所(電中研)系の学者たちがやっきになった歴史。それは、結局のところ原発建設を推進し、原発の事故対策コストを減らすことに奉仕する研究でしかなかった。「しきい値がある」どころか「微量の放射線は体によい」とする知見を打ち立てれば、放射線防御のコストははるかに小さくなるからだ。

 むろん一定の条件のもとでは、LNT仮説を否定するデータも得られている。しかし、完全に否定されたわけではなく、低線量被曝の影響を重視する研究も依然、多く存在する。つまり「わからない領域」が横たわっているのだ。「わからないものはわからない」というのが科学技術の流儀であろう。ところが、原発推進という国策に沿うままに「わからない」はいつのまにか「心配する必要はない」という政策的メッセージとして使われるようになる。国や企業が科学者の研究を勝手に利用したというのではない。科学者自らが競ってそのような発言を繰り返したのだ。

 系譜的には永井隆(『この子を残して』)→長瀧重信→山下俊一へと連なる長崎大医学部人脈の研究もその例外ではない。彼らが90年代のチェルノブイリ事故調査を経て、被災者の実際の健康被害以上に、放射能への「不安をなくす」ことをより重視するようになった経緯について、著者は詳しく調べ上げる。

 山下氏らによるチェルノブイリ調査は、甲状腺がんなど疾病の発生を知らず、あるいは知っていてもそれを無視して、「調査すれど治療せず」、ひたすら安心を言い募り、住民の「不安の除去」に努めるものだった。そこではナガサキ被爆の経験がある種の「権威」として使われた。それと全く同じことがいま福島で行われようとしている。

 島薗氏は、科学的使命を忘れ、そのつどの国策や企業目的に奉仕した放射線科学者たちを厳しく批判すると共に、すべてを知っているかのような専門家が、無知蒙昧の素人を一方的に説き伏せるような現在の「リスク・コミュニケーション」のあり方についても、重大な疑義を呈している。このスタイルは、世界のリスク・コミュニケーション研究の流れからも逸脱しており、日本とりわけ「原子力ムラ」に特異的なものだという。

 いま福島で吹きすさぶ「安全・安心」「除染・帰還」キャンペーンがどのような背景をもつものか。その政策に従う福島県民たちも心の中では釈然としないものを抱えているが、その「不安」にも十分意味があることを、本書は示している。