京都・舞鶴

 珍しく土曜日に京都出張だったのだが、そのまま帰るのが惜しくて、一泊して京都飲み。新幹線の駅の裏手、九条あたり。ポツポツと赤提灯。焼鳥屋が多いが、もう少しその店ならではのつまみを食わせるところをと考え、「うろん(うどん)」をのれんに掲げる店へ。夜7時頃。

 いやあ、これが面白い。駅からそう遠くないとはいえ、九条通りを渡るとジモティ度が増すようだ。カウンターの奥では常連さんたちがくだをまいている。座敷では一人酒のじいさんがわけのわからぬ雄叫びを。しかしアルバイト(学生かな)は瞳のくっきりとしたとびっきりの可愛い娘。カウンターに座ると、その彼女のカレシのトモダチという学生がいて、半年の英語研修でイギリスに行くのだという話。店はもともと昼はうどん屋。最近昼の営業を止め、居酒屋に専念するようになったのだとか。酒肴は特に変わったものはないが、味も悪くないし、高くもない。

 そうこうするうちに、隣席に秋田出身のとび職の男性。まだ36歳なのに、痛風持ちで子どもがいてバツイチ。世をはかなみながらも、全国の工事現場を飛び歩いてきた自分の仕事には自信をもっている。バーチャルではないリアルな人生を聞きながら杯を重ねた。

 翌朝、京都を発って舞鶴へ。なぜ舞鶴かというのはたいした理由はない。少し京都観光をと思ったのだが、春の京都は若い観光客で一杯。テレビの旅特集につられてという感じの女の子が多い。まるで東京ドームのSMAP系コンサート状態。私はミーハーと人混みが嫌いなのだ。

 特急電車に乗って北へ向かう。丹波の山あいの町でふらりと降りるのもいいが、ここは一度も行ったことのない舞鶴へ。鶴が舞う。言葉の響きがいいじゃないか。

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 京都駅でもらった舞鶴の観光パンフレットのキャッチには、「赤と青の協奏曲」とある。「赤」とはいまも残る旧日本海軍の倉庫など赤れんが造りの建物のことで、「青」はリアス式の起伏が美しい舞鶴湾の海の色だという。赤と青のコントラストを強調した見開き写真がたしかに旅情をそそる。

 JRの駅は「西舞鶴」か「東舞鶴」。「舞鶴」という名の駅は存在しないことを今回初めて知った。観光施設が多そうだという勘から、舞鶴線の終点「東舞鶴」で降りる。ただ駅前商店街は人通りも少なく、「協奏曲」というにはほど遠い。空店舗のシャッターに市の「商店街対策委員会」みたいな貼り紙がされているのは、重ねて淋しいことではあった。

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舞鶴引揚記念館

 舞鶴行きに気持ちが動いたのは、第二次世界大戦終了時、旧満州を含む中国、樺太、千島などに残置された軍人・軍属・民間人(総数約600万人)の引き揚げ基地になったという歴史を知っていたからだ。そこは47万人とも言われるシベリア抑留兵の帰還地の一つでもあった。こうして舞鶴港が戦後迎え入れた邦人は約66万人にも及んだ。

 帰還事業が始まったのは昭和22年、終わったのが昭和33年のことだから、終盤には生まれていたものの幼児の私に直接の記憶があるはずもない。だが、後年、戦中・戦後の庶民の生活史やシベリア抑留記を読むと「舞鶴」は必ずといっていいほど頻出する地名ではあったのだ。とりわけ舞鶴の印象が強いのは、1972年の二葉百合子による浪曲調のヒット曲「岸壁の母」があるからだろう。

 その引き揚げ事業を記録する「舞鶴引揚記念館」があるというので駅前からバスに乗って出かけた。記念館の展示は日本近代の軍国主義の拡張と破産の歴史を年表形式で記してはいるものの、全体には「国民的な悲惨な体験」と「引き揚げ事業をサポートした舞鶴市民の温情」を強調するものではあった。なぜそのときそれらの兵士や民間人が大陸に「いた」のかについて、その政治的背景、アジア侵略の歴史を詳しく語るわけではない。あたかも台風や地震のごとき、自然災害のように戦争の受難が語られている。

 いわば、非政治的なノスタルジーに満たされた記念館。「岸壁の母」らが立ち尽くした桟橋が復元されてい、それを見下ろせる丘があるというので、少し登ってみたが、下の方から軍歌が流れてきたので嫌気がさす。

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「在外同胞救出学生同盟」などの腕章

 とはいえ、シベリア抑留兵が持ち帰った遺物、例えば白樺の皮をはいでそこに書き記した手書きの日記の原本など、貴重な史料が保存されていることはたしかだ。以前、ソビエト・ラーゲリの歴史を詳細に記した『グラーグ──ソ連集中収容所の歴史』(アン・アプルボーム著・白水社)を読んだことがあるが、私的にはその知識を補完するものでもあった。また、帰還事業は国策ではあったが、それを強力にプッシュしたのは、「岸壁の母」のモデルとなった「端野いせ」など、庶民や学生たちの運動であったという展示には感慨深いものがあった。

 すでに冷戦は始まっており、ラーゲリで思想教育を受けた抑留兵の一部が帰国後大量に共産党に入党するなど、「シベリア帰り」は戦後日本に一定の思想的波紋を引き起こしたのだが、そのあたりの記述はサラっとしたものだったのが残念だ。

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舞鶴港。海上自衛隊が駐屯

 山と海がせりあい、リアス式に折り重なる舞鶴湾の風景はたいそう美しい。天然の良港で、「とり貝」の養殖地としても知られているという。同時にそこは明治以来、日本海最大の軍港であった歴史ももつ。

 その遺構が、港近くに並び立つ赤れんが倉庫群だ。1900年(明治33)から1921年(大正10年)にかけて建造されたもので、近代洋風建築の遺構としても意義がある。戦前は旧海軍の魚雷倉庫や武器庫として使われていて、軍港・舞鶴はそれゆえ戦争末期に米軍の空爆も受けているが、それに耐えて辛うじて残った建物なのだろう。現在は一部はアートやクラフトの展示スペースになっているが、小樽運河沿いの赤れんが倉庫群ほどは、観光化されていないようにも思えた。

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赤れんが倉庫群

 メソポタミアに始まる世界のれんが建築の歴史をたどる市立の「赤れんが博物館」というものもあった。ただ、ここの展示は説明過多だと思う。細かくなんでも網羅的に説明しようとして、通りすがりの来場者には何がポイントなのかが見えにくくなっている。明治のれんが製造プロセスの説明の隣に、唐突にロシア正教のれんが造り寺院の写真があったりして、少々混乱する。この手の資料館って、やはりキュレーターやライブラリアンのセンス次第なんだなとあらためて感じた。

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 帰路は午後3時すぎの在来線で綾部まで。そこから特急に乗り換え、京都へ。巨大駅ビル内で、素っ気ないただの「にゅうめん」が1,300円もする店に入ってちょっと後悔。夜9時前に小石川に戻る。