いわきと富岡、ふたつの畑

 10/6にいわき市の小川町という地区にオーガニックコットン栽培の“援農”に行った。「援農」というと「三里塚」を思い出す世代である。

 有機綿花栽培事業については、これまでよくわからなかった。有機農法そのものをありがたがる習慣が私にはないし、そもそも衣料用綿の自給率0%の日本で綿を育てても、ビジネスになるはずがないという思いが強かった。そんなものやっても何の役に立つのかと。一種の自己満足にすぎないんじゃないか、と。 

 行ってみるとたしかに綿畑は家庭用菜園というほど規模が小さく、兼業農家が人手不足で放棄せざるをえない畑を借りる程度のもの。綿摘みといっても30人で15分もすれば終わってしまうほどの作業量。昨年収穫した有機綿で織ったTシャツが売られているといっても、いわき産の綿の混入率は数%でしかなく、一種のシンボル的な事業であることはそうなのだ。 

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ケイトウの花も咲くいわきの有機栽培綿花畑

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わずかだが、貴重な収穫

 ただ、この事業にかかわるNPOの人たちの話を聞いて、考え方が少し変わった。

 復興の遅れにいらだついわき市民、補償金で労働意欲を失い、それがゆえに妬みの的にもなっている原発立地地域からの避難民、そして東京からの支援者。この3者をつなぐには、なにか復興のためのシンボルが必要で、それは従来の農業やエネルギー体制とは別の、オルタネイティブな意思を持つものでなくてはならない、という思いが彼らにはある。 

 小規模ながらも太陽光などによる地域発電(コミュニティ発電)を始めているのも、その思いからだ。 

 コットン畑を案内してくれた「おてんとうSUNプロジェクト」の代表者(もともとは関西企業で太陽光発電パネル販売の営業していた人)は「代替案を提示しながらの、新しい市民運動だ」と位置づけていた。

 原発が悪い、地震・津波が悪い、風評被害が悪い、という“被害感”にとらわれたままでは、自分の足で立つことができない。福島を昔通りに再建するというより、新しい未来を感じさせる形で再構築したいということなのだろう。現状はほとんど採算性を度外視した、ものすごく遠大な事業構想だが、そこに関わることで、未来を感じたい。その意思は尊重されて然るべきものだと思う。

 「思いだけじゃ食っていけねえよ」と言う人は多いだろうが、逆に理想を押し殺して現実に拝跪してしまったがゆえに、双葉郡は原発に依存し、しかも中毒のように依存度が高かったゆえに、手痛いしっぺ返しを食らったのだ。 

 人間って何のために生きているんだろうか、というと、なんか青臭いけれど、いわきのコットン畑でモノを考える原点を突きつけられたような思いだった。サリンジャーじゃないけれど、畑ってのは人を物思いに耽らすものなのかもしれない。

 その後バスで、久ノ浜~広野~楢葉~富岡を6号線沿いに北上した。特に今年になって立ち入り制限が解除(ただ居住はできない)された富岡町(福島第二原発の敷地の一部がある町)は、やっぱりひどい状況だ。基本的に3.11で時間が止まったまま。「死の町」というのはけっして大げさな表現ではない。駅前の商店街など、解体して更地にするしかないのだが、それさえ手が回らない状況だ。  

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沿道に整然と(?)積まれた汚染土壌

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JR常磐線「富岡」駅。海に近すぎた駅だった

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ひしゃげた電柱もそのまま。復興に手が回らない


 富岡町は、震災前までは夜ノ森の桜などで観光集客に成功し、町民人口が増えていたところ。中高一貫のスポーツ教育というのも特色があったと聞いている。皮肉な話だが、無農薬の米づくりも進んでいた。 

 ただ、こうした町の財政が第二原発の交付金を抜きにして成り立っていたはずもない。 

 第二原発の廃炉が決定すれば、町は主要産業を失うことになる。むろん何十年とかかる長い廃炉プロセスの間はまだ作業員が行き来するだろうが、もともとの住民ははたしてここに戻ってくるのだろうか。かつて廃鉱の町から人が離れたように、廃炉の町は、他の生きる手立てを探さない限り、人が増えるということはありえない。 

 実際、離散した町民にアンケートを採ると「除染しても戻らない・戻れない」と考える人が43%、決めかねている人が40%もいる。 

 富岡町の自慢は「花と緑があふれる町」だった。たしかに今も緑は溢れている。ただそれは、かつて畑だったものを原型を止めないまでに覆って荒野に変えつつある、膨大な雑草の緑だ。そしてもう一つ車窓の風景に際立っていたのは、除染土壌を溜め込んだ黒いビニール袋。これが文字通り山をなすように、行き場もなく積み上げられている。放射能は目に見えないというけれど、雑草とビニールは見る人の目をまざまざと射ぬく、あからさまな原発事故の爪痕だ。 

 このショートトリップでは、富岡と小川の畑の対比をせざるをえなかった。片や原発事故のために荒果てたまま2年が過ぎた。片や、ようやく人の手が入り、復興のシンボルともいうべき作物が可憐な花を咲かせている。 

 この差は、もちろん原発からの距離の差であり、降下した放射性物質の量の差であり、警戒区域とか避難地区とか行政の区分けの差である。そしてその差を生み出した元凶はいまだに残っている。私たちはそれを、これから先もずっと、この狭い国土に何十と抱え続けなくてはならないのか。答えははっきりしている。