山本太郎バッシングの意味

 山本太郎議員が園遊会で天皇に「直訴」した件。山本バッシングの様相を呈している。

「天皇様に手紙なんて畏れ多い」「一種の手紙テロ」「世が世なら不敬罪」などと批判するのは、保守の人たち。しかし「不敬罪」ですか。この発想自体が奴隷の思想であることに、それを言う本人は気づかない──という、ある意味で明治期以来の天皇制のアポリアがここには再び見られる。

 それほどイデオロギッシュじゃない、フツーの天皇ファンも顔をしかめる。「天皇は被災地訪問などよくされているのに、そのうえ何を望むのか」などと。

 単純に「山本太郎を嫌いだから」、この際叩いておくという論調もネットには多い。そのうち何割かは山本の「脱原発」行動を快く思わない、重度な原発依存症の人たちだが、そうではなくても、芸能人としてのかつての山本の悪ノリぶりを知る人は、「あのバカが、何を偉そうに」という軽蔑の視線を隠さない。

 自分よりもバカなヤツがテレビでオチャラケをしている間は安心しているが、そいつが偉いセンセイになったとたんに、嫉妬の感情を込めてそれを叩くというメカニズムは、大衆心理現象としてはよく見られるところである。山本以外にも多くの芸能人出身政治家がその餌食となってきた。

 私個人でいえば、山本がテレビで裸踊りをしていたころはテレビを観ていなかったのでよく知らない。ただ、映画俳優としての山本太郎の演技は高く評価するものである。政治家になるのもいいが、もっと映画に出てほしいと強く願う。

 2ちゃんねるに「山本太郎の手紙全文公開」という投稿が、東スポ報道のソースを示しながら掲載されると、山本議員の「新党今はひとり」のオフィシャルサイトがそれは「デマだ」と否定するなど、様相はさらに混乱している。東スポのネット版には手紙の一部をiPadに映した山本本人の映像が掲載されているのだが、これは否定しないのだろうか。

 それはともあれ、ふだんリベラルな発言をする人たちも、「象徴天皇制をふみにじる危険な行為」「憲法違反のパフォーマンス」などと今回は批判に回る。原発への反対姿勢を明確にしている識者──例えば、池田香代子──のなかにもこうした態度がみられる。小田嶋隆などは「全文公開」された文書を真実だと思い込んで、しつこく「失礼千万」だと言い張るが、これは一種のマナー論の域を出ていない。

 こうした山本バッシングへの反批判としては、小松裕、坂原辰男、山口二郎、原武史らの識者が朝日新聞にコメントを寄せている。反批判というよりバランスが大事だよという常識的な論調なのだが、これはこれで真っ当な意見だと私は思う。まさに「山本氏だけをたたくのは公平ではない」(山口二郎)のだ。

 法理論をベースにこの問題を論理的に整理しているのが、澤藤統一郎の憲法日記さすが元・日本民主法律家協会事務局長。園遊会がもつ政治的性格を指摘しながら、山本の行為はマナー違反であるとしても、「マナー違反に違反者の権利や資格を剥奪する効果はない」と山本を擁護する。もちろん、共産党系の弁護士としては「天皇への語りかけのパフォーマンスは、民衆の立場を標榜する政治家としてなすべきことではない」と苦言を呈することも忘れていない。

 澤藤が言うように、そもそも天皇に手紙を渡すなどは、全然民衆に依拠した発想ではないし、左翼的でもなんでもない。むしろ天皇親政を求める古典的右翼の発想である。真の左翼であるなら、天皇制は打倒の対象であり、せいぜい無視するのが筋というものだ。山本に「反原発憂国バカ左翼」などとレッテルを貼った小田嶋隆は、日本の政治思想史の勉強が全然足りない。

 山本を反原発テロリストなどと揶揄するネトウヨたちも、同類だ(ま、ネトウヨは右翼じゃない説もあるからな)。思想明澄な古典的右翼はおそらく山本の行為を賞賛しこそすれ、批判はしないし、できないだろうと私は思う。

 私が思うに、今回の手紙手渡しは、まさに戦後民主主義の平和と幸福の象徴としてまったりと存在していた(かのように見える、というか、そのように民衆が思い込んでいた)象徴天皇制システムに、一瞬の裂け目が入った瞬間なのだ。

 園遊会では天皇に「お言葉」をかけられてから招待客が口を開くのがマナー。言葉は春秋の心地よい庭園の香りのなかで、空気のように彼と彼らの間に漂うものにすぎなかった。山本も「俳優をされていたんですね」とか声をかけられ、「はい、今は脱原発で頑張っております」などと殊勝に答えているだけなら、これほど問題にはならなかったはずだ。

 ところが、そこに禍禍しい手紙。そのリアルな手触りである。しかも巻紙に毛筆。もしかしたら希代の悪筆!。それにみ〜んな引いてしまった。見なければよかった。見たくなかった。考えるだけにおぞましい……。

 これって、何なのだろう。山本太郎はまさに空気が読めない男ではあるのだが、逆にそのKYぶりゆえに、擬制としての象徴天皇制のウソっぽさ、空気のように漂いながら、実はそのシステム自体が歴史的にも日本人の思想を制約し、その根幹を規定するものであることを、そしてそれ自体が「まがまがしいもの」であることを、一瞬だけ天下にさらしてしまったのである。

 まあ、それだけのことではある。山本の行為に眉をひそめたり、目くじらを立てる人は、その眉毛と眼球の運動の力学が、どのような政治を空気として吸い込んでいるかにあらためて思いをめぐらすべきだ。まさに「一木一草に天皇制がある」(竹内好)のだから。