差別的落書き

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「差別的な落書き50カ所 東京・大久保、有志が消す活動」 - 朝日新聞デジタル 

 韓国料理店や韓流スター関連商品の店が集まり、「コリアンタウン」として知られる東京・大久保とその周辺の計約50カ所で、在日韓国・朝鮮人らを蔑視する落書きが見つかったことが、市民グループの調査でわかった。2日、ボランティア約50人が落書きを消す清掃活動をした。

 このニュースに予想通りというか、どこかにひな形があるのではないかと思われるぐらいの、お決まりの中傷コメントがいくつか。今回は記事そのものというよりも、この種の記事が必ず派生させる、コメントの心的構造のほうを考えてみたい。

 差別落書きは「“反日外国人“の自作自演説」というのが最もよく目にするテンプレートだが、もう一方で「韓国もヘイトしているのに、なぜそっちのほうを書かないのか」というように、記事の内容そのものではなく、朝日新聞の報道姿勢に問題をすり替えるロジックも、よく使われる。

 例えば、

韓国じゃ大統領から庶民までヘイトスピーチしているけど、まだ足りずにアメリカやヨーロッパまで行ってプロパガンダやってますよね。朝日は批判しないんですか。 反日プロパガンダの旗振り役の朝日じゃ日本人非難しかしないから無理でしょうね

 差別落書きとこの話がどうつながるかわからないのだが、植民地支配への反省のなさぶりと歴史修正主義の台頭に対する、世界各国からの懸念を一括して「プロパガンダ」と呼ぶのは、近年のマスメディアでは産経新聞に特有の用字用語であることをまず指摘しておきたい(特定の新聞ばかり読んでいることが、その言葉づかいからわかる一例)。

 「朝日は批判しない」というが、「韓国のプロパガンダ」が例えばグレンデール慰安婦像建立のことを意味するのなら、朝日新聞はそれを無視しているわけではない(米の慰安婦像撤去訴訟、割れる賛否」2014/02/27など)。むろん、論調は産経とはかなり異なるけれども、慰安婦像撤去に反対している市民のなかには、日系人も含まれることを紹介するなど、エスニックの観点からは全体に公平な記事だったと思う。

 そもそも公器としての新聞の役目は、自国に対して海外からさまざまな評価(懸念や批判も含む)がある場合、その事実を伝え、その背景を吟味することが重要なのであって、批判があるから必ず脊椎反応のように反批判のプロパガンダに勤しまなければならない、というのは、新聞の役目を見誤る暴論だ。

 これは近代におけるマスメディアの役割とも密接にかかわる話である。

 古い話で恐縮だが、明治27年の日清戦争祝勝祈願のパレードでは「都新聞」(現在の東京新聞の前身)や「自由新聞」(板垣退助の自由党機関紙)など有力紙が、率先して清兵の切り首を擬した提灯山車などを繰り出して、沿道から喝采を浴びたそうだ(木下直之『戦争という見世物』P.79-81 ミネルヴァ書房)。近代における初の本格的な対外戦争に浮かれ、国民の戦勝気分を煽り、切り首模型を晒すなどというアジア諸国民に対する蔑視感情を人々に植え付けたのは、他ならぬマスコミの所業であったかもしれない。

 ちなみに同じ時期、勝海舟のように冷静に情勢を観察していた人もいた。

ともあれ、日本人もあまり戦争に勝ったなどと威張って居ると、後で大変な目にあふヨ。剣や鉄砲の戦争には勝っても、経済上の戦争に負けると、国は仕方がなくなるヨ。そして、この経済上の戦争にかけては、日本人は、とても支那人にはおよばないだらうと思ふと、おれはひそかに心配するヨ。

『氷川清話』講談社学術文庫:前掲・木下氏の著書より再引用。

 まさに百年後を見通していたような卓見である。

 ともあれ、そうしたすぐカッとなる気質をもつ日本のマスメディアが、太平洋戦争時にはみんなこぞって、どのような「報道」を行ったかは、新聞や放送の歴史を多少とも知る人なら周知のことである(NHKテレビ小説「ごちそうさん」を見ていたってわかる)。新聞の大本営機関紙化=翼賛化は、日本を破滅させた要因の一つではなかったか。

 戦後のジャーナリズムは、基本的にはそうした反省の上に成立している。暴走する権力批判は、ジャーナリズムの基本使命である。内外のナショナリズムをどう報じるかは、それこそ各新聞社の立場があってもよいと思うけれど、少なくとも対外的な緊張が高まる時期であればこそ、その緊張をいたずらに煽るのではなく、合理的・平和的な解決を促すように、取材の方向性や記事の精査に努めなければならないのだ。

 むろんそのような当為命題と、それがどのように実践されているかは、別の話であるし、朝日新聞だけがジャーナリズムの鉄則を貫いているという評価も、私はしないけれども。

 いずれにしても、「朝日=反日」という彼らの常用基本テンプレートに当てはめると、上記コメントもこのようにしかならざるをえないのだろうなと、コメント主の心情を思って、私は気の毒に思う。

 次ぎに自作自演説について考えてみよう。

「差別落書きは日本の評価を貶めるために、反日思想の持ち主が書いたもの」という自作自演説は、「アンネの日記」損壊事件でもワンパターンのように登場した(やはりどこかにテンプレートがあるのだ(笑))。おそらく「こういう落書きは日本人はしないもの」という単純な思い込みが背景にあるのだろう。

 その思い込みは端的にいってたんなる妄想でしかないのだが、唯一その「根拠」らしきものがあるとすれば、今回は「チ」というカタカナの書き順が日本で学校教育を受けた人間のそれではない、ということがあるらしい。これには笑った。写真を見る限り、小中高大学と日本で教育を受けた私もあのように「チ」を書くからだ(私、犯人じゃないよ)。

 このように何の根拠もない「自作自演」説が、ことあるごとに再生するメカニズムは、一般的には陰謀史観に淵源があると思われる。陰謀論と差別意識は、「ユダヤ議定書」の時代、スターリン粛清の時代、いやもっと古く中世の魔女裁判の時代から、密接不可分に一体化しており、それゆえ非科学的・反知性主義な思考の持ち主には、魅力的なものだった。

 それは現代日本でも脈々と息づいており、町場のヘイトスピーチに力を与えている。

 それにしてもこうした「落書き犯は反日の陰謀」説の人には、現に「チョンは日本から出て行け」という落書きと全く同じか、ときにはそれ以上の内容を声を大にして叫ぶデモが、この新大久保界隈で、日本人(自称かもしれないけれど)の一部によって昼間堂々と行われていることは、どのように映っているのだろう。落書きもヘイトデモも、それが音声化・行動化されているかの違いだけで、本質的に同じものではないか。

 もしかして「清く正しい日本人」は、外国の横暴に対する「抗議デモ」はするが、落書きなどしないとでも強弁するのだろうか。まさかね。

 むろんこうした落書きは世界中の暗い路地裏やガード下やトイレの壁に無数に存在する。インターネットもある種のトイレの落書き的な側面はあるから、下に図示するようにその手の文言・画像であふれかえっている。

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ネットで拾った画像。添えられた文章は「チョンとシナは日本から強制排除せよ!」と絵柄に似合わず勇ましい。

 あまりみっともいいものではないが、このようにしてしか自らの主張を表明できない人々の、抵抗的表現と言えなくもない。戦時中にさえ、「鬼畜米英」の公式スローガンのビラの端には、それを揶揄する厭戦的な落書きが書かれていたりした。

 しかし、新大久保の落書きは、けっして市民の抵抗とは言えないだろう。むしろ同じ日本の市民社会を構成する、在日外国人の生存権そのものへの恫喝であり攻撃である。「在日特権」なる根拠のない概念でカモフラージュした、明白かつ感情的な民族排外意識の表出である。

 自分とは異なるものを差別しなければ、自分のアイデンティティを保てず、生きた心地がしないような人々は、人種・民族・歴史の違いを超えて必ず存在する。だから日本人の専売特許ではないのだが、同時に異民族を差別したいという暗い情動から、日本人だけ免れているということもありえない。アイヌ、沖縄、朝鮮、部落に対する差別は近代以降、もっとも日本人が得意とするものではなかったか。 

 差別を根絶することは、事ほどさように簡単なことではない。しかしこうした差別を助長するのは、その時代の政治情勢でもあることも事実である。

 日本には民族差別落書きは無数にあり、在日コリアンが長年にわたって生活の場としている現場にも無遠慮にそれは浸透しつつあるのだが、それを排除するためせっせと消して回る人々もいるという報道は、少なくとも私にとっては大きな救いでもあった。