昨日の朝日新聞夕刊で読んだ、小川糸という作家のエッセーが、私の何かと符合した。
作家は、この夏をベルリンで過ごしているらしい。
「ベルリンは、緑あふれる美しい町。不慣れな環境で作ったぎこちない料理も、趣のある建物や見事な街路樹を見ながら食するだけで、おいしくなる。街頭で奏でられるストリートミュージシャンの音色を耳に、異国の夜はゆるゆると更けていくのである」
2006年の夏に私もベルリンにいて、似たような体験をした。都市の生活はどの国だって窮屈なものだが、それでもあえて人が都市に住むのは、趣のある都市文化という、田舎では得られないオマケがあるからだ。ベルリンでは夏の薄暗い闇にさえ、文化の色気のようなものがあった。繁栄と退廃と、モダニズムと廃墟と、尋常ならざる歴史の変動を耐えてきた都市ならではがもつ「したたかさ」のようなものが、そこにはあった。
世界を旅したアメリカの作家、ポール・セローは、かつて東京があまりに効率的なのに感服して「これは都会じゃない、機械だ」と評したことがある、という。
それはけっして誉め言葉ではない。私も似たような感じがすることがある。東京は世界有数の機能的大都市ではあるが、無名の群衆が住むことによって醸し出される都市的情緒というものは、年々薄くなっているような気がする。
そもそも東京は、もはやベルリンのようなコンパクト・シティではない。資本がつくったメガロポリス。緊密な交通ネットワークは関東平野を覆い尽くし、どこからが東京で、どこからがそうでないか、その境界は不分明だ。
都市的情緒を味わうにしても、それなりの金が要る。どこぞのお洒落なバーで高い値段をふっかけられ、明日も仕事がある身にとっては、汗蒸した終電のある間に帰ってこなくてはならない。汗くさいのは風土の関係で仕方がないけれども、それ以上に水くさく、金の匂いばかりがする大都会の夏。都市栄えて文化果つるの、寂しい夜だ。
もちろん、そういう薄情な街に住みながらも、見知らぬ人と人とがつながるために、熱心に闇夜を歩いていた時期が、私にもあった。20代の初めのころまで。飲み会があるぞと言われれば、どこにでも出かけた。そこで知らない人とたくさん出会った。今よりもずっとフットワークが軽かった。
そう考えてみれば、東京が寂しいのは、たんに歳を取ったというにすぎないのかもしれない。実は都市の問題ではなく、私の歳の問題なのか……。
Berlin, July,2006
ツィッターから今晩は。年をとってフットワーク確かに重くなっちゃってるかも?東京ってなんだか地方から来た若者ばっかり元気なイメージがありますね。おじちゃんおばちゃんも元気なんだぞ〜!と、ブラ浪漫で叫びたい気分w