心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつくれば
大文字の護摩木って、以前にもこのように組織的に集められるという例があったのだろうか。市民が一人ひとり受付所まで出向いて、名前などを書いて納めるというのがふつうのことのように思われるのだが……。もともと今回の計画自体が極めて例外的なものだったのではないか。そこには一種のパフォーマンス臭さ、イベント臭さが漂うのである。
とはいえ、震災の犠牲者に鎮魂の意を表そうと、保存会があえて例外を決意したのであれば、何があっても中止すべきではなかった。いかなる妨害や風評にも負けてはいけなかった。「五山送り火」を神聖なものと考えるのであればなおさら、その信念を貫くべきであった。これでは梯子をかけておいて、それを外すという非道のそしりは免れまい。保存会は風評加害に荷担したと言われても仕方がない。
保存会に寄せられた市民の放射能拡散を憂う声も、まったく科学的合理性を欠いたものである。合理性を欠いたところで根を張るのは、一種の「清潔という病」である。もっといえば、他者の汚れを見てみないふりをして、自分さえ清浄であればよしとする、傲慢さだ。精神的排外主義という言葉を当ててもいい。
韓流エンタティンメントが氾濫するフジテレビへの抗議活動なるものとも、通底する問題がある。これは頭のとち狂った自民族中心主義者による、民族排外主義以外の何ものでもないが、メンタリティとして共通するのは、他民族の文化を汚れたものとみなし、その血を頑ななまでに容れまいとする「純化という病」だ。戦間期のドイツでもそうした病は広く蔓延した。それがファシズムの温床になった。
そもそも文化というのは、歴史的な形成物なのである。平和時の交流や交易はもとより、戦争や植民地主義といった暴力を背景とした出会いもまた、反面では異文化の混淆、混じり合いを生むものである。それによって異文化は交錯し、結果として一つの地域の文化は多様化せざるをえないのだ。人が動けば文化は変容する。植民地経営のために宗主国の文化を押しつけようとすればするほど、被植民地の文化は本国に環流せざるをえないのだ。
本来、国境などを越えて容易に多様化される文化を、一民族固有のものに押し留め、ナショナルな文化に代替させようとするのは、一種のイデオロギー的操作である。固有なものなど、実は何もないのだ。