WoWoWで映画『4月の涙』を観る。1917〜1918のフィンランド内戦下における赤軍(赤衛軍)の女性リーダーと白軍(白衛軍)兵士の恋とそれぞれの運命を描く。
フィンランド内戦について私は何も知らなかった。ただ、ロシアと近接した地政学的関係、帝政ロシアによる支配、ロシア化政策に反対する民族運動などの歴史的背景を見れば、ロシアとの愛憎半ばする関係が、国内の階級闘争に反映されていたとしてもおかしくはない。ロシア革命はその発火点だったのだ。
労働者の側からすればフィンランド革命という呼称がふさわしいと思われるが、内戦はドイツとロシアの代理戦争の側面も呈した。形は違うが、スペイン市民戦争の前哨戦ともいうべき闘いだったのかもしれない。
革命の勃発は、この時代らしく首都ヘルシンキで赤衛軍の一団が塔に登り、赤いランタンで街を照らしたことが合図だったといわれる。ロシア革命に乗じて蜂起した労働者たちと、これに反撃した富裕層・資本家・インテリ層、そしておそらくフィンランド正規軍の連合部隊との内戦は、合わせて3000人規模の死者、1万人以上の捕虜を生んだ(註)。当時のフィンランド人口は400万人ほどだから、3000人は0.075%。現在の日本の人口でいえば、9万人に匹敵する。2年近い内戦の末、労働者側は無惨に敗北した。生き残った赤衛軍のなかにはソ連に亡命した者もいる(Wikipedia)。
労働者の敗北の要因はさまざまあろうが、ロシアに対しては、帝政時代は植民地主義の宗主国であり、一時は民族語の使用も制限されるなど、民族的な憎しみが蔓延していたことは事実だろう。いかに革命によって政体が変わったとはいえ、ロシアを後ろ盾に社会主義革命を標榜する労働者運動は、保守派やナショナリストからは「民族的裏切り者」の烙印を押され、草の根の支持を得にくかったということがあるかもしれない。
劇中でも、村を出て革命運動に身を投じた女性活動家に対して、貧しい農民から「アカのメス豚」という侮蔑語が投げつけられる。貧しさを解決するために闘った農村出身の都市労働者と、実際の農民層との間の「労農連帯」は不首尾に終わったのだろう。
軍事的にも赤衛軍が頼みとした、駐留帝政ロシア軍の動きは鈍く、新生ソビエト赤軍による援軍も間に合わなかった。平原を白衛軍に追われ、ちりじりになった赤衛軍の女性部隊も最後には投降を余儀なくされるのだ。
双方ともに訓練を受けた正規兵は少なく、多くが武装した市民兵だったことは、捕虜虐待や裁判なき処刑が多発した理由の一つだろう。映画はこのシーンについては労働者寄りで、女性捕虜に対する輪姦、逃亡を企てたという理由での銃殺など反革命暴力のすさまじさをつぶさに描写している。
そこに登場するのが、正義感が強く、リベラルな教養も持ち合わせた白軍の下士官だ。革命軍を追討する部隊の中にあって、捕虜に対する裁判なき処罰は法に反すると敢然と主張する。生き残った赤軍の女性リーダーに裁判を受けさせるために連行する役目を担い、その途中で彼女と暗黙の恋に陥るというわけだ。
女性リーダー役の女優は、若い頃のケリー・マクグリス似の強い瞳をもつ芯の強そうな美女。白軍兵士もハンサムだ。湖をボートで渡る途中に流れ着いた無人島の船小屋で二人は抱擁するのだが、それ以上の関係には進まない。白軍兵士は沸き起こる彼女への欲望を自制する。女性観客にはわかりにくいかもしれないが、眠る女性兵士を見つめたあと、男が小屋の外で自慰するシーンがある。もしもそこで彼女と交わってしまえば、捕虜を犯した野卑な白軍の民兵と同じことになってしまうからだ。
彼女を愛しすぎれば、重刑の待つ法廷へ彼女を差し出すことはできなくなり、かといって彼女と一緒に逃亡すれば軍人としての任務を放棄することになる。
映画はこのあたりから、たんなる市民戦争のスペクタクルから、それぞれの人物の内面的な葛藤を描くようになる。そしてそれが、この映画をよりドラマティックに仕立てている。
なかでも、革命をさばく判事役の屈折した人物像は興味深い。内戦前は国を代表する人文主義者、詩人として知られた男らしいが、革命時は軍法会議の裁判官として強権をふるい、元は精神病院だっという臨時裁判所の館を領主のように支配し、赤軍兵士を次々に処刑する。捕虜の死体が処理される前で、とくとくと記念撮影をさせていたりもする。むろん、その転向過程に彼自身心痛がないわけではなく、それは日夜の酒浸り生活に現れる。
判事の奇矯な性格は、性的嗜好にも現れている。自分の妻と下士官を交わらせたり、拘留されている女性リーダーと下士官の会話を節穴から覗き見したりする。判事自身はバイセクシャルで、女性囚の解放を餌に下士官に自分とのセックスを強要したりもするのだ。
映画の前半で勇敢かつ潔癖な革命家として描かれる女性リーダーにも、次第に変化が現れる。自らの命乞いというよりは、権力者をからかうような姿勢で、判事の前で服を脱ぎ、誘惑しようとするのだ。革命の敗北を悟りながらも、玉砕をよしとせず、彼女なりの抵抗を続け、敗北後の世界をしたたかに生き延びようという、ある種の生命戦略が彼女の中に芽生えたのかもしれない。戦闘の途中で亡くなった仲間の女性兵士の遺児を救うということが、彼女の革命後の主要な課題になる。その戦略性には、下士官の正義感や判事の偽悪性をも圧倒する、たくましさがある。
逃亡時に下士官から「もしものことがあったら、これをつけろ」と渡された白軍を示す白い腕章。最初はそれをつけることを拒否するのだが、仲間の遺児を施設から救い出す映画のラストシーンではその腕章はしっかり彼女の左腕につけられていた。子どもと交わす狡知のウィンクは、彼女のしたたかさを示す象徴的なシーンだ。
男たちは無駄に闘い討ち死にするが、女たちはしぶとく闘い、そして生き延びる──そういってしまうと身も蓋もないが、知られざるフィンランド内戦の様相と共に、女性の強さをあらためて痛感させる映画ではあった。
映像は美しく、とりわけ湖水地方の風景は、物語が同じ民族同士の争いという悲劇を描いているだけに、その美しさは残酷なほどだ。ケン・ローチの『麦の穂をゆらす風』をふと思い出す。こちらも同年代のアイルランド内戦を描きながらも、その後景には、たわわに実る麦畑が静かに風に揺れていたことを。
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(註)死者・捕虜数などはWikipedia「フィンランド内戦」に従ったが、日本公開時に来日したアク・ロウヒミエス監督のインタビューによれば「フィンラド内戦では約4万人もの人が戦闘ではなく、処刑や捕虜キャンプで命を落とした」とある。
フィンランド市民戦争の写真がいくつか海外のサイトに紹介されている。その中から一つ。
写真のキャプションには、「Finnish Red Guard Women, 1918」とある。勇ましい。