高校時代の友人に、福島県で校長先生をしながら詩を書き続けている人がいる。彼の学校は、原発事故からの避難対象地区にあった。生徒も教師も四散した。今は県内の別の学校に間借りして、なんとか授業を再開している。その人が『現代詩手帖』2011年5月号に書いた詩をめぐって、一つの感慨が生まれた。ここでいう「戦後」に生まれるべき「詩」とは、「文学」一般へと敷衍してもいいし、あるいは映画、美術、その他のアートと言いかえてもよいのだと思う。
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このたびの東日本大震災を、原発事故を含めて「第二の戦後」あるいは、明治維新を数に入れて、日本における「第三の転換期」と呼ぶ人たちがいる。高度化したテクノロジー社会(と思っていたもの)が、自然の暴威の前にもろくも崩れ去ったショックを、文明論的な意味での転変と呼びたい気持ちはわからないでもない。
もし今が第二の戦後だとすれば、「戦後詩」は再び現れるのかというのが問題だ。
西洋近代の精神文化を注入した明治維新と文明開化は、近代詩という新しい詩型を日本に育んだ。太平洋戦争もまた、日本人が近代国民国家の一員として遭遇した史上最大の「災厄」であったがゆえに、復員した、あるいは銃後にいた若い詩人たちから、戦後、堰を切ったように言葉があふれ出た。
それはたんに戦争の犯罪性を弾劾するのではなく、廃墟の中で不定型にさまよう人々の正気と狂気を言葉につなぎ止めようという試みでもあって、詩人たちに、近代社会の多様な形相に応じるための、新しい詩型を与えた。
詩はもとより個人的なものであるから、詩の主題はさまざまだった。戦後になって大量に生まれたサラリーマンの哀感を歌う詩もあった。その一方で、自らの被爆体験にこだわりつづける原爆詩というものもあった。ただ、社会がガラガラポンになったような戦後の解放感のなかで、しかしそれでもなお空虚な現実の前で、新しい言葉で詩を書かなければならないという、詩人たちの切実感には共通のものがあったように思う。
大震災の後に、そのような新しい詩を獲得することが私たちにはたして可能なのか、というのが重ねての問いだ。
震災もまた一種の戦争のようなものかもしれない。震災を間近に体験した詩人たちの新しい言葉は、もしかすると震災「後」にしか獲得できないものなのかもしれない。ただ、「震災後」はいつになったら訪れるのか、私たちに。
原発震災は終わりが見えない。日常にはたしかに切れ目が入ったのだが、その引き裂かれた切れ目はずるずるといまもなお大地を曖昧に浸食しつづけている。
齋藤貢は詩篇「南相馬市小高の地から」のなかで、旧約聖書の物語を引きながら「荒野をさまよう私たちの旅」と表現する。文字通り、それはたびたびの避難を指してはいるのだろうが、それ以上に「さまよう」としか表現できない、彼の宙ぶらりんの状態を感じるのだ。
津波の引いた後に見えているのは「果てしない流浪の荒野」であるというのは、示唆的だ。ノアの方舟の伝説でも、漂流の後七日目の鳩は、オリーブの葉を加えて船に戻ってきた。かすかな希望がそこにはあった。その希望さえ、今はないというのか。
目の前で津波に流された人々の遺体は、泥の底に埋もれたままだろう。洪水が収まると「すべての人間は粘土に変わっていた」(『ギルガメシュ叙事詩』)のだ。生き残ったものは、泥の上に墓標を立ててやろうにも、そこに戻ることができない。家々の原型は保たれていて、街並みは残っていても、人がいない。明確な欠損を埋めるのは、ガイガー=ミュラー計数管の騒々しいアラーム音ばかりだ。人々はその音に惹かれ、同時にそれを恐れる。故郷喪失がこのような形で現実のものとなることを、受け入れられないままに異郷の土地をさまよう。
この彷徨する感覚は、「現代詩手帖」のなかの他の詩人のいくつかの作品にも、共通につきまとうものだ。これは重要な感覚だ。文明開化が始まったわけでもなく、戦争が終結したわけでもない。何かの終わりのようでもあるが、何かの始まりのようにも感じられない。それがこのたびの大震災の詩的なイメージの根幹に横たわる、詩人たちの「違和感」なのだ。
その違和感は、瓦礫に舞い上がる砂塵のようなものであればまだしも、放射性物質の分子サイズの塵のように目に見えないから、払い落とすこともままならない。
私はしかし、この肌にまとわりつく違和感こそが詩の原点だろうとは思う。今はまだそこに留まり、深く潜り込むしか、新しい言葉は得られないのではないかと思う。
だからあえて言えば、齋藤が「明けない夜はない」というクリシェ(常套句)で詩をまとめることに、少し失望を感じたのだ。それは歌謡曲のフレーズだ。いや、中島みゆきさえ、そんなフレーズは使わない。
どこからかオリーブの葉がもたらされることを願って、そう書かずにいられない心情は慮るが、詩はたんなる心情の吐露ではあるまい。
ついでにいえば「明けない夜はない」は和合亮一の常套句でもある。和合の詩は、ボクシングのジャブのように言葉がはじけるが、はじけた先にすぐ消えてしまう。ツィッターなどを使うからだ。言葉を定着させず、何かしらの運動のように吐き続けることをあえて選んだのだとすれば、それはそれで方法論としてはありうることだと思うが、私はその方法について、まだ評価を定めることができない。
角田光代に『八日目の蝉(セミ)』という小説があって、そのタイトルの意味は、「他の蝉は死んだのにたったひとり生き残ってしまった八日目の蝉は、ほかの蝉が見られなったものを見られる」という小説内の言葉から来ているのだという。
彷徨いの地に、七日目の鳩は戻ってこない。しかし、生き残った人々は八日目の蝉のように、見るべきものは見なければならない。おまえは何を見たのか。泥と放射能の堆積の底から、どんな結晶を、どんな言葉を拾ったのか。私はそれを齋藤のこれからの詩に期待する。そのとききっと、もう一つの「戦後詩」が生まれているのだと思うから。
