WoWoWで映画『4月の涙』を観る。1917〜1918のフィンランド内戦下における赤軍(赤衛軍)の女性リーダーと白軍(白衛軍)兵士の恋とそれぞれの運命を描く。

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 フィンランド内戦について私は何も知らなかった。ただ、ロシアと近接した地政学的関係、帝政ロシアによる支配、ロシア化政策に反対する民族運動などの歴史的背景を見れば、ロシアとの愛憎半ばする関係が、国内の階級闘争に反映されていたとしてもおかしくはない。ロシア革命はその発火点だったのだ。

 労働者の側からすればフィンランド革命という呼称がふさわしいと思われるが、内戦はドイツとロシアの代理戦争の側面も呈した。形は違うが、スペイン市民戦争の前哨戦ともいうべき闘いだったのかもしれない。

 革命の勃発は、この時代らしく首都ヘルシンキで赤衛軍の一団が塔に登り、赤いランタンで街を照らしたことが合図だったといわれる。ロシア革命に乗じて蜂起した労働者たちと、これに反撃した富裕層・資本家・インテリ層、そしておそらくフィンランド正規軍の連合部隊との内戦は、合わせて3000人規模の死者、1万人以上の捕虜を生んだ(註)。当時のフィンランド人口は400万人ほどだから、3000人は0.075%。現在の日本の人口でいえば、9万人に匹敵する。2年近い内戦の末、労働者側は無惨に敗北した。生き残った赤衛軍のなかにはソ連に亡命した者もいる(Wikipedia)。

 労働者の敗北の要因はさまざまあろうが、ロシアに対しては、帝政時代は植民地主義の宗主国であり、一時は民族語の使用も制限されるなど、民族的な憎しみが蔓延していたことは事実だろう。いかに革命によって政体が変わったとはいえ、ロシアを後ろ盾に社会主義革命を標榜する労働者運動は、保守派やナショナリストからは「民族的裏切り者」の烙印を押され、草の根の支持を得にくかったということがあるかもしれない。

 劇中でも、村を出て革命運動に身を投じた女性活動家に対して、貧しい農民から「アカのメス豚」という侮蔑語が投げつけられる。貧しさを解決するために闘った農村出身の都市労働者と、実際の農民層との間の「労農連帯」は不首尾に終わったのだろう。

 軍事的にも赤衛軍が頼みとした、駐留帝政ロシア軍の動きは鈍く、新生ソビエト赤軍による援軍も間に合わなかった。平原を白衛軍に追われ、ちりじりになった赤衛軍の女性部隊も最後には投降を余儀なくされるのだ。

 双方ともに訓練を受けた正規兵は少なく、多くが武装した市民兵だったことは、捕虜虐待や裁判なき処刑が多発した理由の一つだろう。映画はこのシーンについては労働者寄りで、女性捕虜に対する輪姦、逃亡を企てたという理由での銃殺など反革命暴力のすさまじさをつぶさに描写している。

 そこに登場するのが、正義感が強く、リベラルな教養も持ち合わせた白軍の下士官だ。革命軍を追討する部隊の中にあって、捕虜に対する裁判なき処罰は法に反すると敢然と主張する。生き残った赤軍の女性リーダーに裁判を受けさせるために連行する役目を担い、その途中で彼女と暗黙の恋に陥るというわけだ。

 女性リーダー役の女優は、若い頃のケリー・マクグリス似の強い瞳をもつ芯の強そうな美女。白軍兵士もハンサムだ。湖をボートで渡る途中に流れ着いた無人島の船小屋で二人は抱擁するのだが、それ以上の関係には進まない。白軍兵士は沸き起こる彼女への欲望を自制する。女性観客にはわかりにくいかもしれないが、眠る女性兵士を見つめたあと、男が小屋の外で自慰するシーンがある。もしもそこで彼女と交わってしまえば、捕虜を犯した野卑な白軍の民兵と同じことになってしまうからだ。

 彼女を愛しすぎれば、重刑の待つ法廷へ彼女を差し出すことはできなくなり、かといって彼女と一緒に逃亡すれば軍人としての任務を放棄することになる。

 映画はこのあたりから、たんなる市民戦争のスペクタクルから、それぞれの人物の内面的な葛藤を描くようになる。そしてそれが、この映画をよりドラマティックに仕立てている。
 
 なかでも、革命をさばく判事役の屈折した人物像は興味深い。内戦前は国を代表する人文主義者、詩人として知られた男らしいが、革命時は軍法会議の裁判官として強権をふるい、元は精神病院だっという臨時裁判所の館を領主のように支配し、赤軍兵士を次々に処刑する。捕虜の死体が処理される前で、とくとくと記念撮影をさせていたりもする。むろん、その転向過程に彼自身心痛がないわけではなく、それは日夜の酒浸り生活に現れる。

 判事の奇矯な性格は、性的嗜好にも現れている。自分の妻と下士官を交わらせたり、拘留されている女性リーダーと下士官の会話を節穴から覗き見したりする。判事自身はバイセクシャルで、女性囚の解放を餌に下士官に自分とのセックスを強要したりもするのだ。

 映画の前半で勇敢かつ潔癖な革命家として描かれる女性リーダーにも、次第に変化が現れる。自らの命乞いというよりは、権力者をからかうような姿勢で、判事の前で服を脱ぎ、誘惑しようとするのだ。革命の敗北を悟りながらも、玉砕をよしとせず、彼女なりの抵抗を続け、敗北後の世界をしたたかに生き延びようという、ある種の生命戦略が彼女の中に芽生えたのかもしれない。戦闘の途中で亡くなった仲間の女性兵士の遺児を救うということが、彼女の革命後の主要な課題になる。その戦略性には、下士官の正義感や判事の偽悪性をも圧倒する、たくましさがある。

 逃亡時に下士官から「もしものことがあったら、これをつけろ」と渡された白軍を示す白い腕章。最初はそれをつけることを拒否するのだが、仲間の遺児を施設から救い出す映画のラストシーンではその腕章はしっかり彼女の左腕につけられていた。子どもと交わす狡知のウィンクは、彼女のしたたかさを示す象徴的なシーンだ。

 男たちは無駄に闘い討ち死にするが、女たちはしぶとく闘い、そして生き延びる──そういってしまうと身も蓋もないが、知られざるフィンランド内戦の様相と共に、女性の強さをあらためて痛感させる映画ではあった。

 映像は美しく、とりわけ湖水地方の風景は、物語が同じ民族同士の争いという悲劇を描いているだけに、その美しさは残酷なほどだ。ケン・ローチの『麦の穂をゆらす風』をふと思い出す。こちらも同年代のアイルランド内戦を描きながらも、その後景には、たわわに実る麦畑が静かに風に揺れていたことを。
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(註)死者・捕虜数などはWikipedia「フィンランド内戦」に従ったが、日本公開時に来日したアク・ロウヒミエス監督のインタビューによれば「フィンラド内戦では約4万人もの人が戦闘ではなく、処刑や捕虜キャンプで命を落とした」とある。
 フィンランド市民戦争の写真がいくつか海外のサイトに紹介されている。その中から一つ。
 写真のキャプションには、「Finnish Red Guard Women, 1918」とある。勇ましい。

 太平洋の白波が飛沫を上げる断崖に、そそり立つ白亜の建物は、福島第二原発だ。その直下の砂浜に男と女の心中屍体が打ち上げられる。冒頭から流れる松村禎三の不協和音的な旋律は、映画の通底音として観るものに不安を搔きたてずにはいない。

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 『原子力戦争 Lost Love』──映画の中で場所は特定されていないが、福島県いわき市および双葉郡の福島第二原発近辺でロケされている。劇中「平(たいら)の街のネオンが〜」という商店街のアナウンスが混じる。駅舎の風景は平駅(現・いわき駅)だろうか。それとももっと原発に近い富岡あたりだろうか。ちなみに、平はいわき市の中心にある商業地区。第二原発からでも35km離れているが、今も昔も原発後背地としての役目を担っていることはたしかで、この距離感はさして問題ではない。

 原発の危険性を象徴的に描いた映画として、昨年からリバイバル的に話題になっている映画である。映画のワンシーンには第二原発の受付に無許可で入って、警備員に止められる所も挿入されている。このあたりは元々ドキュメンタリストとしてスタートした黒木監督の面目躍如だ。

 Youtubeにも一部が投稿されている。いわき在住ジャーナリスト、「日々の新聞」の安竜昌弘氏もブログで再三採り上げている。

 2012/2/8の記事ではこんな風に紹介されている。

「公開が昭和53年だから35年も前の映画だ。当時は200海里問題による北洋サケマスの減船と炭鉱の終焉という、いわきを取り巻く社会的事象があり、きちんと映画の中にも反映されている。そして70年代のいわきの風景が、ノスタルジーを誘う。黒木和雄監督の映画としては評判が今ひとつだったが、原発事故に見舞われたいまだからこそ、わかるところが多い」

 いわき市江名にある、安竜さんの自宅の近くでもロケが行われたらしい。

 黒木和雄の卓見を感じるのは、劇中に用いられる「チャイナ・アクシデント」という言葉だ。地方支局のさらにその通信所に飛ばされた新聞記者(佐藤慶)が、原子力科学者(岡田英次)を問い詰める。

「原発でチャイナ・アクシデントが起こっているんじゃないですか」

「キミキミ、軽々しくそういうことを言うものではない。そんな事故が発生する確率はキミの頭に隕石が落ちてくるほど、低いのだよ」

 チャイナ・アクシデントとは、もちろんチャイナ・シンドロームのことだ。ただこの映画撮影の当時は、こういう言い方がされていたのだろう。あるいは、「シビア・アクシデント」と「チャイナ・シンドローム」の合成語か。

 映画の公開は1978年2月。スリーマイル島事故は79年3月。1年後を予見し、さらに33年後を予見していたということか。

 私が観たのはCS「日本映画専門チャンネル」の放映、岩井俊二のセレクション「映画は世界に警鐘を鳴らし続ける」の一作だ。このほかにも、鎌仲ひとみの『ヒバクシャ HIBAKUSHA 世界の終わりに』や『六カ所村ラプソディー』なども選ばれている。

『原子力戦争』放映の前後に、岩井の短い紹介テロップが入るが、それがまたなかなか辛辣だ。

「原作を書いたジャーナリストもまた、劇中の新聞記者と同様の運命をたどったのだろうか……」

 という意味のこと。むろん、田原聡一郎のことだ。今でも原発に反対だか、賛成だかわからない。しばらく前までは、こんなことをやって小遣いを稼いでいたお調子者のことである。

 デビュー間もない、風吹ジュンが初々しい。山口小夜子といっても今の人にはピンと来ないが、元祖「猫目女」。芝居は下手だ。しかしながら、原田芳雄はかっこいい。

 タイトル作品が今晩、WoWoWで放映される。この映画のことはずいぶん前の日記に書いたような記憶もあるのだが、探し出せないので、再び書く。

 もともとは、1971年に『純愛日記』という甘ゆる〜いタイトルで日本公開された、スウェーデン製の青春恋愛映画だ。私は田舎の映画館で、ビージーズの音楽でよく知られる『小さな恋のメロディ』との併映で見た記憶があるのだが、高校時代の友人に聞くと誰も覚えていないという。

A Swedish Love Story

■邦題『純愛日記』 
 原題:En Kärlekshistoria
 English Title:A Swedish Love Story
 監督:ロイ・アンデルション Roy Andersson
 上映時間:114 分
 製作国:スウェーデン
 受賞歴:第20回ベルリン国際映画祭 批評家特別賞ほか計4賞
 基本情報はこちら
 今回のWoWoW放映情報は、こちら
 Youtubeの投稿映像でもその雰囲気は伝わるかもしれない。

 ロイ・アンデルション監督(アンダーセンよりはたぶんこっちのほうが現地読みに近い)は佳作の人。コマーシャルフィルムが本業のようで、彼のCF作品は、You Tube にも何本かアップされている。監督の公式サイト(なのかファンサイトなのか、スウェーデン語なのでよくわからん)もあるが、そっけない。
 台詞の少ない淡々とした映像。当時はティーンエイジャーの大胆なセックスシーンが話題になったが、日本ではかなりカットされたのか、いま思えばどうってことないものであった。夏休みの避暑地に彼女が彼を訪ねるシーン。ミニスカートのベルトあたりにさりげなくサングラスをかけた格好が、たまらなくカッコよかったのを覚えている。
 そうなのだ。我が高校時代に特に印象に残った作品なのだ。この映画は。

 2006年ごろふと思い立って、この映画の情報を集めていたときに、そのエッセンスがYoutubeに投稿されているのを発見したのだが、35年前の古い映画が、そのころYou Tubeに載せられたのは、どうやら 2003年あたりから欧州でリバイバル公開されているというのが理由のようだった。日本でもロイ・アンダーソン監督の7年ぶりの新作(『愛おしき隣人』)公開に併せ、2008年4月に恵比寿ガーデンシネマで『スウェーディッシュ・ラブ・ストーリー』の邦題で再映された。私はその上映を見逃したのだが、その後DVDが発売になり、35年ぶりに再見することができたという次第。

 で、ここからが本題。再見したときの感想である。
 ひっきりなしにタバコを吸う少年少女たちやファッションはいかにも70年代的ではあるが、それを除けば、映画はけっして古びてはいない。35年前のフィルムは、見事なまでに再生処理されており、映像のみずみずしさは当時も今も変わらない。撮影は『みじかくも美しく燃え』や『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』と同じヨルゲン・ペルソン。説明と台詞を極端に排除した展開は、まさに「スタイリッシュ」と呼べるものである。だからけっして悪くはなかったのだが、あの感動を再びというのとはちょっと違う、不思議な体験をした。

 私の記憶の中で、この映画は典型的な青少年恋愛ものなのだが、今回再見したら、微妙に違うのだ。もちろん14歳ぐらいの少年少女が主人公であることは間違いなく、彼女たちの幼いなりに真剣な恋愛がメインストーリーであることもまたその通りなのだが、そのラブストーリーを地に浮き出た文様だとすれば、むしろその「地」の部分にこそ不思議な味わいがあって、それが映画のふところを深いものにしているのだ。「地」にあるのは、二人の家族・親戚など周囲の大人たちの、エキセントリックな立ち居振る舞いだ。

 初公開当時は約20分カットされ、今回のが完全版だという。当時もカット部分があることは知られていたが、その多くは少年と少女のセックスシーンだとされていた。しかし、どうやら他の部分も削られていたようだ。たとえば、少女には独身の叔母が一人いて、それが子供のいない独身の身の不安を延々と少女に語るシーンがある。あるいは、田舎の別荘に両家が集まるパーティでは、異常なまでに笑い転げるその叔母が、唐突に、脈絡なく、対面する席の男から殴られたりする。それらのシーンを、私は全く覚えていなかった。少年の側も両親の仲はけっしてよくなく、家族の間には小さな苛立ちがある。ラストのパーティシーンでは、少年の父が沼の中で入水自殺を図り(実際には周囲の勘違いだったのだが)、みんなが霧の中を大慌てで捜索したりする。「ええっ、こんなカット、あったっけ」と、私は呆気にとられた。

 当時削除されていたとすればやむを得ないが、そうでなかったとしても、私の記憶がそうした、映画の「地」を成している「問題のある大人たち」の存在をすっかり消し去っているのだ。そのせいで、35年前と今回では、映画の印象が微妙に違った。たんに、削除されていた部分が復活したからだけでなく、長い間の風水で柔らかい地表が削られ、堅い部分のみが岩山として残るのと似た、私の側の記憶の風化も、印象の違いには影響を与えているはずだ。

 しかし、今回、完全版を観ることで、ロイ・アンダーソン監督の、変わらぬ作風というものを感じることができたのは幸いだった。『スウェーディッシュ・ラブ・ストーリー』に登場する奇矯な大人たちは、その後の『散歩する惑星』におびただしく登場するおかしな「隣人」たちによく似ている。『愛おしき隣人』にも、「彼らは」同じように登場している。

 その大人たちの表情には、おかしみに彩られた死の匂いがする。そもそも、『スウェーディッシュ〜』で少年と少女が出会うのは、老人介護施設のようなところだった。人生の終わりに近づいた老人たちの世界。そこに14歳の少年少女たちの、若い性と初々しい好奇心が、対照的に置かれている。人生に鬱屈した大人たちと、その鬱屈を未だ知らぬ少年少女の恋愛。その対比にこそ、この映画の妙がある。死と生が織りなす人生の陰影こそ、アンダーソンが本当に描きたかったものではないだろうか。

年末年始は、これまでTVから撮りためておいた映画をいくつか消化した。といっても、未見の映画がブルーレイディスクに280本以上溜まっている。すでに観たものは、そのうちたぶん2割程度ではなかろうか。これからも週に数本ずつ増えていく。おそらく一生かかっても追いつけない。とうてい見きれないものをなぜせっせと録画するのかと問われても困る。答えは、ただ、そこに映画があるからだ。

それはともあれ、よかったのは、『マイ・ブラザー』(2009年/ジム・シェリダン監督/ナタリー・ポートマンら出演)と『ある愛の風景』(2004年/スサンネ・ビア監督/コニー・リールセンら出演)だ。

後者のデンマーク作品を前者がハリウッド・リメイクしたという関係。ストーリー展開もほぼ同じ。通常リメイク版っていうのは、優劣がはっきりするものだけれど、これはどちらも甲乙つけがたい秀作。女優の演技としては、無口なコニー・リールセンよりもナタリー・ポートマンにやや軍配が上がるが……。

名作『ディア・ハンター』を彷彿とさせる反戦映画とカテゴライズしてもいいが、夫婦・兄弟の関係がより丹念に描かれている。

他には、『あの日、欲望の大地で』(2008年/ギジェルモ・アリアガ監督/シャーリーズ・セロン主演)がよかった。『21グラム』『バベル』でも見られた、多重時制法のシナリオの巧みさに見事にやられた。キム・ベイシンガーの落魄した人妻役の演技も見ものだ。

『シリアスマン』(2011年)は、コーエン兄弟の新作ということで期待してたけれど、ハズレだった。

そういえば、BS11に「ジェイ・シネカノンシアター」という番組があって、倒産したシネカノンの作品を毎週放送している。

先の『ある愛の風景』もそれで録画してたのだが、リストをみるとシネカノンは内外の秀作を一貫性をもって集めて、配給していたことがあらためてわかる。

このリストの中では『奇蹟のイレブン 1966年W杯北朝鮮VSイタリア戦の真実』というサッカー・ドキュメンタリーが興味深かった。イタリア戦に奇跡的に勝ったものの、ベスト8で敗れた北朝鮮チーム。選手たちの情報はその後、西側世界から途絶え、強制収容所に入れられたなどのデマも飛び交うが、どっこいちゃんと生きていた。撮影は2002年前後だけれど、このころはまだ平壌にも明るい雰囲気があったのかなという感じがする。

それにしても民放(WoWoW以外)のTV映画放送は、途中でCMを入れるから困る。せっかく映画の世界に入りかけている視聴者にとっては興ざめ以外の何ものでもない。「ジェイ・シネカノンシアター」も、実にくだらないCM入り。再生の前にできるだけカットするようにしているのだけれど、取りきれない。CMを入れるなというのは無理な注文だが、せめて本編の後か先にまとめておいて欲しい。それが映画ファンへのせめてもの配慮だろう。

昨日は友人が支配人をやっているホールのイベントで、「山崎バニラの活弁ワールド」というのがあり、招待していただいたので見に行った。日にちを勘違いしていて、出かけるのが遅れてしまい、第二部の「無声映画『カリガリ博士』ピアノ弾き語り」にようやく間に合ったのだけれど。

山崎バニラという人のことは、NHKの何かの番組にコーナーをもっていて、ものすごいアニメ声で印象に残っていたが、ナマを見るのは初めて。なかなか多彩な芸人さんだ。テレビでは金髪のウィッグ姿が多いが、『カリガリ博士』の活弁でウィッグを外した姿は、ふつうの女性である。

『カリガリ博士』は映画史にその名を残すドイツ表現主義の怪奇映画だが、全編を見るのは初めてだった。バニラのピアノと巧みな台詞回しはまったく違和感がない、というか、臨場感溢れて楽しめた。映画それ自体も、デフォルメされた幾何学形を多用した舞台美術は、カリガリ博士の崩壊する精神世界を象徴するようで、その意匠はけっして古さを感じさせない。

一緒に見た友人夫婦と新宿で軽く飲んで、深夜帰宅。

岩波書店 シリーズ「日本映画は生きている」

昨夜は一文で飲んでいるときに、Hが来て,久しぶりに一緒に飲む。
先月、CSの日本映画専門チャンネルを登録したことを思いだし、録画を始める。なかでもATG・アーカイヴが面白そう。まずは羽仁進・寺山修司の『初恋・地獄篇』。ATGは学生時代、同時代で観ていたけれど、ちょうど第2期にあたるところで、第1期、第3期はあまり観ていないのじゃないか。本作も名前はつとに有名だが、たぶん初めて観る。ATGらしい画面の暗さ、猥雑さ、エロス満開だが、それを除けば意外とありきたりの、若者のラブストーリーではある。主演の高橋章夫、石井くに子はその後どうしたんだろう。
大島渚『新宿泥棒日記』、松本俊夫『薔薇の葬列』、新藤兼人『濹東綺譚』あたりは押さえておきたい。原田美枝子製作・原案という『ミスター・ミセス・ミス・ロンリー』(1980年)もたぶん観てないな。

日曜日、昨年度に数々の賞を取った映画『剱岳 点の記』を飯田橋ギンレイホールで。すべて実写ロケで撮ったというのが今さらながら評価の対象になるという、映画の世界のパラドックス。たとえ人は登れても、機材を運ぶのが大変で、その大変さはむしろ、以前にNスペがやった再現ドキュメンタリーのほうがよく伝わってくる。
映画の後、神楽坂・本多通りをふらふら。茶髪だけれど妙に人の気をそそるオネエサンが呼び込みをしていた地下の居酒屋にふらり。店名は「酒葵(しゅき)」。オネエサンに先導されて、階段を降りると、少し妖しげな感じになったのだけれど、これがまた清く正しいお店で、焼酎の品揃えがすごい。カウンターに一人陣取り、店長(修行中)と会話しながら、おいしいつまみに全国各地の焼酎を7杯ほど。焼酎の愉しさを久しぶりに味わった。
そこを出たのがまだ9時頃だったと思うが、一文にいるMMさんから電話。ブミューという感じで飲んで、丸金でラーメン食って、帰還のよし。

WOWOW録画。

『ハッピーフライト』飛行機オタクを意識しているのか、航空機運航の舞台裏が細かく描かれている。飛び交う専門用語もまたご愛嬌。ANA全面協力。そこそこ面白かった。矢口史靖のうまさを感じる。
公開にあたって膨大な宣伝費をつぎ込んだキャンペーンが繰り広げられたらしいが、ちっとも知らんかった。(★★★1/2☆)

『誰も守ってくれない』

少女殺人事件の容疑者として逮捕された少年の家族。家宅捜索を受けて母は自殺し、父と妹はマスコミや世間の目から遠ざけるという意味と、警察の事情聴取を円滑に進めるという理由で、警察の保護下におかれる。その妹と、保護にあたる刑事を中心に物語は展開される。これは、なかなか意欲作だと思う。容疑者家族の視点というのは、これまでの映画にはなかった。妹役の志田未来を最初は、谷村美月と間違っていた。感じはよく似ていると思う。

マスメディアをも出し抜き、メデイアスクラム以上に怖い、ネットの悪意。大阪府知事に扇動されて弁護士懲戒請求などの「行動」を起こす輩。映画ではその行為が一部、特定され、制裁されるけれども、現実は野放し状態だ。(★★★1/2☆)

『長い散歩』
2006年モントリオール世界映画祭で3冠を受賞した奥田瑛二監督作品。脚本は奥田の妻・安藤和津、長女・安藤桃子、次女・安藤サクラの共同クレジットだというから、家族揃って映画づくりということか。佳作だとは思う。緒形拳の渋い演技はさすがである。ただ、旅の途中に道連れになる少年(松田翔太)の自殺以外は意表をつく展開がなくて、ドラマとしての面白さ、緊迫感には欠けるきらいがある。(★★★☆☆)

『鏡の国の戦争』
スーザン・ジョージとかピア・デゲルマルクとか懐かしい女優が。
『スイングガールズ』
見逃していた。エンタテインメントとしては最高だな。

速映画批評『 THE WAVE ウェイヴ 』|服部弘一郎氏

11月14日(土)、シネマート新宿にてロードショー

作品情報

制作年:2008年

上映時間:108分

公式サイト:the-wave.jp

配給:アット エンタテインメント

キャスト・スタッフ

監督:デニス・ガンゼル

キャスト:ユルゲン・フォーゲル、フレデリック・ラウ、マックス・リーメルト、ジェニファー・ウルリッヒ

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西川美和監督の『ディア・ドクター』ってのも面白そうだ。土曜日からギンレイでやるから、オフ会の前に観に行こうかな。PM3:35〜

『自由へのトンネル』(劇場未公開/イタリア/ハンガリー/イギリス合作/WoWoW/★★★☆☆)
1961年、西ベルリンに住むイタリアからの留学生らが、壁のため西側に戻れなくなった同級生らを救うべく、東西のベルリンを結ぶ地下トンネルを掘ったという、実話に基づいている。日本語吹き替えが興ざめだが、まあ、並み程度のスリルとサスペンスはある。前後編とあり長尺だが、それほどは飽きない。主人公の恋人役のエリンという女の子(女優の名前は忘れた)が可愛い。もちろん、以前観た『トンネル』(2001年)のほうがドラマとしての重厚感はあったけれども。

『アメリカを売った男』(2008年日本公開/アメリカ/WoWoW/★★★☆☆)
原題の Breach は「背任」というぐらいの意味か。渋面のクリス・クーパーはスパイ・サスペンスには必須の脇役だが、今回は主演。ライアン・フィリップはナイーブな訓練捜査官、ローラ・リニーは仕事と結婚したような独身女性エージェント役で、それぞれが芸風のツボにはまった演技をしていて、そういう意味では最適の配役、かつそれゆえ無難な映画。最初は明確な理由を告げられず、上司の背任捜査を命じられる訓練捜査官が、上司の奇矯ではあるけれど魅力的な人柄にしだいに惹かれていく過程はよく描かれている。ふと、佐々木譲の『警官の血』(下巻)のストーリーと対比したくなる。

テレビ録画の映画鑑賞。粛々と消化中。ただ日記に記録しておかないと何をみたのかをすぐ忘れてしまう。

ビレ・アウグスト監督『マンデラの名もなき看守』。27年間獄中にあったネルソン・マンデラに、看守として接触しながら、さまざまな意味で触発される男の話。あらすじを聞くだけで予期できる全体のストーリー、その意味ではベタなのだが、役者のクオリティが高いので十分見応えがある。アパルトヘイトというのは知っているようで知らないわけで、その意味で啓発的価値は高い。
ANCの綱領的文書が南ア政府の手によって発禁扱いとされ、公安警察の許可がなければ閲覧できなかったというのは初めて知った。マンデラが最後に移管された刑務所は、刑務所というよりは文字通りの別荘みたいな快適なところで、懲役ではなく幽閉ともいうべき状態だったようだ。これもまたアパルトヘイトへの国際的圧力の成果なのだろうが、ANCの反アパルトヘイト闘争についても、あと数カ所ぐらいシーンをはさんでくれると、よりわかりやすくなったかもしれない。看守の妻役のダイアン・クルーガーは相変わらず美しい。この人、芝居うまくなったね。(WoWoW/★★★★☆)

ポール・ハギス監督『告発のとき』。原題の「In the Valley of Elah(エラの谷にて)」は旧約聖書にあるゴリアテとダビデが戦った谷のことだという。キリスト教圏ではピンと来る題名なのだろうが、日本人には馴染みが薄い。だからといって、この邦題はなんとかならなかったのか。

ミステリー映画としてしかみていないブログが多いようだが、これはイラク戦争に対する近年まれにみる強烈な反戦映画ではないか。戦地からの息子の訴えを聞き流してしまった父。犬をはねるようにして少年をひき殺してしまった息子。帰還後も心の荒廃が進む若い兵士たち。自身も軍役があり、愛国主義だった父の戦争と、大義を失った息子の戦争。冒頭あたりとラストの星条旗の対比。ラストの星条旗はあえて逆さまに吊されるわけで、数ある「アメリカの戦争」映画で逆さまの星条旗というのはおそらく前代未聞。トミー・リー・ジョーンズは覚悟の出演だろう。

息子の携帯電話に残された動画が謎解きの重要な手掛かりになるのだが、その映像を入手する過程がいかにもご都合主義的なところを除けば、満点を上げたいぐらいだ。(WoWoW/★★★★☆)

『ブラインドネス』をWoWoWで視聴。原因不明の感染症で全世界の人々が徐々に失明し、患者らの強制隔離が行われる。ただ、その中に一人、なぜか失明を免れた女が一人いた。

一種のパニック・ムービーではあるのだが、ラース・フォン・トリアー監督の『ドッグビル』『マンダレイ』にもテイストが似た、寓意性豊かな実験映画ともいえる。限界状況のなかで試される人間の意志と能力の物語という意味では、フランク・ダラボン監督の『ミスト』とも共通するものがある。したがって、こんなウイルス、科学的にありえないとか、収容所の施設管理がお粗末などという、枝葉末節の批判は当たらない。

「全世界失明」vs「一人の晴眼者」という関係性は何を意味しているのだろうか。

 人々が失明することで体験するのはたんに日常の起居が不便であるというだけではない。感染を恐れ、患者らを身近でサポートする人々はない。公権力さえいずれは失明病ウイルスの蔓延の中で機能しなくなるのだ。患者らは自ら規律を生み出し、調和的に集団生活を営むことを余儀なくされる。一種の「患者自治」の発生だ。コミュニティのなかでは失明者のほうが多数なので、ときには自らの失明を笑えるゆとりも生まれてくる。

 しかし、自治の民主主義は、食料と情報が限られているという絶対条件のもとでは容易に崩壊する。収容所内に王権=独裁権力が芽生え、食料をめぐる駆け引きが行われ、それに抵抗する人々の闘いが始まるというあたりは、よくあるシチュエーションではあるが、そのリアリティはよく描かれている。

 収容所はやがて、人間の奥深い欲望をさらけだし、支配と屈従の地獄図と化していく。そのただらなぬ状況は失明者たちがまさに身をもって感じることなのだが、なかでも一人の晴眼者(ジュリアン・ムーア)は、その状況を視覚的にも背負わなければならないのだ。収容所内の出来事は、できれば「見たくなかったこと」なのだが、しかし、彼女はそこから目を離すことはしない。
 「見える」こと、しかも一人だけ「見える」ことの“特権”を、彼女はあたかも最後の切り札のようにして行使する。銃に抗するハサミ。それは全世界を救うための特権者の暴力である。

 特権はどのように行使されるべきかという考察に加えて、共同性の再構築というテーマも映画には含まれているような気がする。

 世界が闇(ここでは白い闇だが)に閉ざされるとき、一人ではもとより、家族的な紐帯にすがるだけでも、人々は生きることができない。個を、社会的共同性の中に開かなければ、食べ物さえ手に入らないのだ。これはまさに人類が地球に出現したときの状況と似てはいないか。私たちの祖先は、たとえ目は見えていても、生き抜くための情報は皆無であり、日々の糧を得るためには暗闇を匍う盲人のように手探りで探すしかなかったのだ。やがて情報を共有する共同体が出現し、それが国家へと至る。いわば、人間の共同体の根源を探る視点がこの映画にはある。

 グローバリズム社会における、人種や民族や国境、さらには家族の境界をも越えた新たなコミュニティ(=疑似家族)の可能性を探った映画と、深読みすることもできないではない。多人種的な配役もそのためかもしれない。

 ドラマの後半に現れる「目隠しされたキリスト像」については、おそらくは原作小説の中では重要なモチーフなのではないかと思われる。ジョゼ・サラマーゴの小説は読んだことがないが、著作の中に『修道院回想録』や『イエス・キリストによる福音書』という表題があることからして、おそらく宗教の問題は作家の重要なテーマだと思われるからだ。しかし、映画のなかではそのモチーフは少々消化不良だ。

 集団ヒステリーを扱うパニック・ムービーのようでいて、テーマは意外と深い。ただ、カタストロフィに至る過程に今ひとつひねりが加えられたらもっとよかったと思う。ガエル・ガルシア・ベルナルはこの手の悪役をやらせると案外いい。伊勢谷友介、木村佳乃も日本人夫婦役を好演。(★★★★☆)

友人ETお薦めの『チェイサー』はたしかに力作。猟奇殺人を扱った映画は無数にあるが、この十数年ではベスト10に入るかも。ワタシ的にはベストワンはデヴィッド・フィンチャーの『セブン』かな。古いのでは当然ヒッチコックなどが挙がるけれど。(DVD/★★★★☆)

近所のレンタル屋からは『ボーダータウン 報道されない殺人者』。事実がベースの正統的社会派サスペンス。ただ、映画としての感興はいま一つかな。ストーリー・テリングに既視感がある。なぜ5000人にも及ぶ行方不明者が生まれるのか、その犯罪の動機が解明されないままというところも、すっきりしない点。犯人像がちょっと曖昧なのだ。
ただ、こうした社会的問題、なかでもメキシコ原住民が政府・企業による土地収奪の過程で、都市部へ流入せざるをえない問題に光を当てているところは特筆すべき。スペイン語、英語だけでなく、原住民の言葉も台詞のなかに頻出する。殺人事件の舞台になったファレスには日系企業も多数進出しているという。監督・スタッフは映画制作過程でさまざまな脅迫を受けたという。(DVD/★★★☆☆)

他には『理想の女(ひと)』。アマルフィが舞台だというので観てみた。1930年代の大不況期にも、欧米の金持ちはイタリアの高級リゾート地で遊びほうけて、人の女房を盗むのに汲汲としていたというお話なんだが……。これは、スカーレット・ヨハンソンというよりヘレン・ハントの映画じゃないか。妖艶な中年女性が、最初は誰だかわからなかった。ヘレン・ハントの成熟に比べると、ヨハンソンはまだいろんな意味で若いよのお。
アマルフィロケもしているようだが、ドゥオモ広場あたりしか、明確にはそれと気づくことはできなかった。このころの金持ちは船も使ったろうが、急ぐときは小型飛行機でローマあたりまで帰ったんだね。(NHK-BS/★★★☆☆)

土曜、予定を少しずらして渋谷・イメージフォーラムで『アンナと過ごした4日間』。Sと。感動的という感じの映画じゃないけど、見応えは十分。東欧の重たい雲の色が、映画全体の色調になっている。
映画館を出ると雨がぱらついている。銀座のもつ焼きの名店「ささもと」へ。ここのもつは絶品だ。店の雰囲気も下町、場末と違って、女性でも臆せず入れる上品さ。やはり銀座だ。焼酎を8:2ぐらいの割合で赤ワインで割った「葡萄割」もなかなかいける。
ここで結構飲んだんだが、腹にたまるという感じではないので、小石川の焼肉屋へ。11時台に帰還。
昨日来、Booxter 作者の Matt からテスト依頼があり。小さなテストプログラムを3度にわたって走らせる。最後はなかなかいい感じだった。これで直るかなあ。

『トムマッコルへようこそ』の原作者でもあるチャン・ジンが2007年に撮った作品。強盗殺人で無期懲役の模範囚が一日だけ外出を許され、15年も会っていない息子と母親に会いに行く。息子とは3つのとき別れたままでこれまで一度も面会したことがない。懲役囚はその顔さえ忘れてしまっているのだ。
 映画の途中までは、ぎこちない父子関係にしだいに血が通い始める過程をたどって、まあ、よくある父子モノかなと思ったのだが、終わりの15分ぐらいがちょっと違う。驚愕のラストというほどでもないが、すっかりダマされてしまった。その詳細を書いてしまうと未見の人には申し訳ないので、一切書けないのだが。
『トンマッコル』にも共通する独特のユーモア感は好ましい。
監督は「私自身はストーリーが順調には終わらない作品の傾向が好きだ。私の好みもあるがこのような展開にしなければきっと退屈だったのではないだろうか」と、あるインタビューで述べている。たしかに退屈さからは免れている。というよりも、ここでは「父」と「子」の血縁関係はいわば一種の象徴性なのであって、それにとらわれなくても、人と人の心の通い合う瞬間というものはあるのだと、気づかされるのだ。(NHK-BS★★★☆☆)

映画『アンナと過ごした4日間』公式サイト

2009/10/16の日経夕刊で、中条省平が今年度ベストワンとして推していた。中条の映画観はわからないが、ともあれ、見てみよう。

それと同じ欄で渡辺祥子が推していたのは、根岸吉太郎の『ヴィヨンの妻』。松たか子の演技は(昔はともかく)十分認めるところなので、これも必見だな。

サイバー犯罪を扱う映画もネット技術の進歩を追いかけ、さらに追い抜くように、新手の犯罪手段を考案するようになる。『真実の行方』(96年)『オーロラの彼方へ』(00年)が印象深いグレゴリー・ホブリット監督、ダイアン・レイン主演の『ブラックサイト』(08年)。
猫を罠にかけて殺すシーンをえんえんと流す闇のサイト killwithme.com は、物見高いネットユーザーの間でしだいに評判になる。そのうち、毒物入りの注射器をセットした拷問台に、男を縛り付けた映像が現れた。アクセス数の増加につれて、注射器からは少しずつ毒物が被害者の体内に注入されるという仕掛けだ。
Webのアクセスカウンターと、外部の機器や装置のアクチュエーターを連動させるということは、技術的に可能なんだろうか。Webアクセスと制御ソフトをからめれば決して不可能だとは思わないが、それが実現したという話は聞いたことがない。ただ、この映画ではもっと先を行っていて、携帯電話や自動車までがネットを介して「ハック」されることになる。
リアルに進行する犯罪を阻止すべく、FBIのサイバー捜査官ダイアン・レインらは動き出すのだが、サイトのIPアドレスはたえず変更され、遮断してもすぐにそのサイトのコピーが現れる手の込んだ仕掛けが施されている。しかも使用サーバーはロシア、すなわちFBIの管轄外というの一応の説明(いまどき、これだけでは弱いと思うけれど)。捜査官たちは被害者が死ぬまでの瞬間をただ呆然とモニターで見やるしかないのだ。
昔から闇の世界ではリアルな殺人儀式を観衆に見せたり、それをビデオに撮ったスナッフムービーというものがあるらしい。それらがネットに流通してもなんらおかしくはない。さらに、2ちゃんねるに代表されるような野次馬サイトでは、猫殺しの画像が評判を呼び、自分で放火した家の炎上シーンを投稿する輩もでてくる。
荒唐無稽と笑い飛ばせないありうべき技術的可能性と、実際にありうる、ネットを感情の増幅装置として利用した劇場型犯罪が、この映画のベースだ。技術的問題はいろいろと指摘されようが、それなりにリアルっぽく映画に取り込んでいるなという感じ。
人々の好奇心と無関心はコインの裏表というあたりが、映画の伝えるメッセージ。「死刑だってそのうちネットで中継されるようになるさ」というような台詞があったように記憶している。
ダイアン・レインを観るのは『パーフェクト・ストーム』(00年)以来だと思うが、激務と子育てに疲れ果てたオバサンな感じがよく出ていた。80年代の知的美貌は取り戻すべくないが、まあ、これはこれでよいんではないだろうか。
最後は、体操選手のような肉体のしなやかなさ(スタントウーマンだとは思うけれど)、黄門様の印籠のようにFBIのバッチを見せる派手な立ち回りを見せるのだが、このあたりはジョディ・フォスターの最近の演技を意識しているようにも見える。そう、ダイアンはジョディより3つも若いんだものな。(WoWoW/★★★☆☆)

このタイトルどうなんだろうと思っていたが、見終わってやはり原題の『The Kite Runner(凧追い)』よりは、これしかないかな、と。

70年代のアフガニスタン。裕福なパシュトーン人の家庭に雇われる、モンゴロイド系少数民族ハザラ人の召使い一家。雇い主の息子と召使いの息子という関係にありながらも、アミールとハッサンは兄弟のように育ち、仲がよい。

だが、12歳の冬の凧合戦の日、臆病者のアミールはハッサンを裏切り、盗みの汚名まできせて友の人生を台無しにしてしまう。それから26年。今はアメリカに住み新進小説家としてデビューしたアミールのもとに一本の電話が。彼は意を決して、タリバーン支配下のカブールへ償いの旅へと旅立つ……。

アフガン出身の作家カーレド・ホッセイニの原作はあくまで小説だが、彼がかつて育った時代「中央アジアの真珠」と呼ばれたカブールの美しい街並みが、郷愁と共に再現されている。それが78年の軍事クーデターとその後のソ連侵攻、さらに98年のタリバーン実効支配に至る過程で、無惨にも崩壊していく様子も。

私は多数派のパシュトーン人によるハザラ人に対する差別がこのような形で現れていることをこれまで知らなかった。亡命したアフガン系米国人の生活の一端もなかなか興味深い。ソ連兵やタリバーン指導者の暴虐も、どこまで事実に即しているかは不明ながらも、かなりひどい描かれようだ。

こうしたアフガニスタンのエキゾチックな風景と歴史的・社会的な文脈が横糸に、少年たちの友情の物語が縦糸に織り込まれる。もちろん、アミールとハッサンの知られざる関係や、今はタリバーン幹部になった幼なじみとの遭遇シーンなど、韓流映画も真っ青のご都合主義的な仕掛けもあるのだが、それを興ざめさせないほど、奥深い映画に仕上がっている。誰もが想起するのは、カンボジア内戦とポル・ポト支配を舞台に、ジャーナリストとアシスタントの友情を描いた映画『キリング・フィールド』(84年)だろう。

私も子ども時代に凧揚げに興じたが、空中で相手の凧の糸を切る凧合戦はやったことがない。映画を見てもよくわからなかったのだが、どういうテクニックを使うんだろう。