東日本大震災で津波に流された岩手県陸前高田市の名勝「高田松原」の松を、「大文字」で知られる京都の伝統行事「五山送り火」で燃やす薪として使用する計画が、福島原発事故による放射能汚染を懸念する声が寄せられたため中止になった、というニュース

大文字の護摩木って、以前にもこのように組織的に集められるという例があったのだろうか。市民が一人ひとり受付所まで出向いて、名前などを書いて納めるというのがふつうのことのように思われるのだが……。もともと今回の計画自体が極めて例外的なものだったのではないか。そこには一種のパフォーマンス臭さ、イベント臭さが漂うのである。

とはいえ、震災の犠牲者に鎮魂の意を表そうと、保存会があえて例外を決意したのであれば、何があっても中止すべきではなかった。いかなる妨害や風評にも負けてはいけなかった。「五山送り火」を神聖なものと考えるのであればなおさら、その信念を貫くべきであった。これでは梯子をかけておいて、それを外すという非道のそしりは免れまい。保存会は風評加害に荷担したと言われても仕方がない。

保存会に寄せられた市民の放射能拡散を憂う声も、まったく科学的合理性を欠いたものである。合理性を欠いたところで根を張るのは、一種の「清潔という病」である。もっといえば、他者の汚れを見てみないふりをして、自分さえ清浄であればよしとする、傲慢さだ。精神的排外主義という言葉を当ててもいい。

韓流エンタティンメントが氾濫するフジテレビへの抗議活動なるものとも、通底する問題がある。これは頭のとち狂った自民族中心主義者による、民族排外主義以外の何ものでもないが、メンタリティとして共通するのは、他民族の文化を汚れたものとみなし、その血を頑ななまでに容れまいとする「純化という病」だ。戦間期のドイツでもそうした病は広く蔓延した。それがファシズムの温床になった。

そもそも文化というのは、歴史的な形成物なのである。平和時の交流や交易はもとより、戦争や植民地主義といった暴力を背景とした出会いもまた、反面では異文化の混淆、混じり合いを生むものである。それによって異文化は交錯し、結果として一つの地域の文化は多様化せざるをえないのだ。人が動けば文化は変容する。植民地経営のために宗主国の文化を押しつけようとすればするほど、被植民地の文化は本国に環流せざるをえないのだ。

本来、国境などを越えて容易に多様化される文化を、一民族固有のものに押し留め、ナショナルな文化に代替させようとするのは、一種のイデオロギー的操作である。固有なものなど、実は何もないのだ。

6.11に新宿中央公園を出発地に、東口アルタ前で解散する「6.11新宿 原発やめろデモ」というのに参加してきた。

もともと高円寺のリサイクルショップの店主がTwitterで広めたデモで、旧来の反核運動とは様相を異にして、ロック、パンク、ラップ系のサウンド・カーを先頭に鐘太鼓で練り歩くスタイルのパレード。20代〜30代が圧倒的に多い。その様子は、Youtubeにもたくさんアップされている。

ただこの日は、「脱原発100万人アクション」の一環ということで、共産党や全学連(民青系)、独立系労組(フリーターの労組とか)などの幟も目立ち、旧来勢力と新規勢力の合体という印象だった。主催者発表では参加者約2万人。2万は大げさだとしても、1万人以上はたしかにいたと思う。

 

俺は、40歳前後のデザイナー、カメラマンといったカタカナ系職種の連中に誘われての2回目の参加だった。主張は超シンプルで「原発止めろ」「放射能怖い」の一点。代替エネルギーどうすんだとか、低レベル放射線については色々な議論があって……うんぬんという細かい話は抜き。

むろん背景には「なんでこうなっちまったんだあ」という清志郎風の不安と怒りがあるけれども、街頭デモに通有の日頃の憂さ晴らしという側面もないではない。

俺はそれでもいいと思う。テーマがなんであれ、街頭で若者が抗議行動を起こさない国になんて、未来はないから。

 

6.11で興味があったのは、デモに慶応の社会学者の小熊英二が子連れで参加していたこと。彼のスタート地点での挨拶は面白かった。脱原発に転じた保守派の西尾幹二の発言を引きながら、「民主主義と原発は両立しない」ことを鋭く指摘していた。

 

小熊英二の本は、全部並べると50cm幅をゆうに越えるぐらい、分厚いので有名。俺はそのほとんどを所蔵し、その多くを読んできた。ナマの小熊英二を見るのは初めてだが、アジテーションが上手いのに驚いた。小熊が脱原発を主張するのは全く違和感がないが、それでもあれだけ浩瀚な書物を書き表す人が、街頭でも行動するというのはちょっと意外だった。著書『1968』でベ平連の活動を相対的に高く評価していた人だから、このデモにベ平連的なもの感じて、コミットすることを決意したのかもしれない。

 

若者の憂さ晴らし的な面もあると書いたが、最近のこの手のデモでは缶ビールや缶チューハイを飲みながら練り歩くというのもふつうの光景になっている。我々の時代の学生デモでは想像もできない。

 

別に酒飲んだっていいし、大麻やってたっていいし、そのほうがノリがいいのならそれで構わないのだが、やはり酔っ払ってしまっては困る。マッコリのボトルを片手にフラフラとなりながら、沿道の買い物客に「デモに参加しようよ」と訴えても、あんまり効果はない。どころか、逆効果だ。

解散地点のアルタ前ではビールを真ん中に車座になる人たちもいた。真面目くさる必要は全然ない。デモは苦しいより楽しいがいいに決まっている。でもね、花見酒やりたいんだったらだったら、他所でやれよ、だよな。前々回の渋谷でのデモでは逮捕者も出ている。昔は「てめえら、革命的緊張感がねえんだよ!」とどやしつけられて、「自己批判」を迫られるのがオチだったんだがなあ。

朝日ニュースターの番組で言っていたのだが、ある種の世論調査では次の都知事選では石原慎太郎の四選確実とか。自民党のサーベイで、有効投票数を獲得する候補者がおらず、再選挙となる可能性が浮上した、「だからオレが出ればまた勝てる」とばかり再出馬に翻意した、その出馬理由の話だったかもしれない。

いずれにしても今回の地震を「天罰」だと表現した人である。ニュースソースの一つ毎日新聞の記事を見ても、天罰発言に至る論理の飛躍はとうてい理解の範囲を超えている。もともとこの人の小説には言葉の繊細さというものがなかった。若書きの通俗小説家が時代に押されて有名になっただけのものである。政治方面への転身は、彼のキャリアプランとしては正しい選択だった。

ただ、政治家になってもその拙い言葉使いは矯正されず、何十年にも至ってしまった。政治評論家にでもなっていれば、また一種の味になったものを、惜しいことに、というか怖ろしいことに、いまだ一線の行政の長である。もはやこの歳になれば彼の言語能力は矯正不可能というべきだ。

というわけで一都民としては、彼にもう一期、都知事をさせることは資質の面できわめて危険だと考える。次に東京直下型地震が来るよりも怖ろしいことだ。なんとしてでも彼を落とさなければならない。

ただ先の自民党のサーベイにもあるように、有力な対立候補がいないのは残念ながら認めざるをえない。そこで有権者としてはどういう行動をするべきか。一つの示唆になるのは、山口二郎氏が2007年の都知事選のときに提案した「投票日の1週間前か、4,5日前に新聞に発表される世論調査を見て、その時点で一番石原を倒すことができる可能性の高い人に票を集める」という戦略だ。

小池晃か渡辺美樹か、あるいはドクター中松か、そんなことはどうでもいいのだ。石原に勝てるなら誰でもいいという、ある意味ではやみくもの行動である。ただ、「敵の敵は味方」というのはマキャベリの時代からある政治戦略の一つで、これが有効に働く場合もある。

「選挙は結果が全て。変なアマチュアリズムではなく、戦略的投票で立ち向かうべき」という山口氏の言葉を、今回の都知事選では私は念頭に置くことにする。