なかなか年の瀬という感じがしないのだが、周囲が「仕事納めだ」「その前に原稿あげてよ」などと騒ぐので、そんな気分になってきた。明日朝までに仕事を2本片付ければ、それで放免。晦日からは実家に帰省予定。
ただ年明けからは仕事やら、NPOやらでまた忙しくなりそうだ。実家ではのんびりするが、3日には東京に戻ってこないともろもろ準備が間に合わない。
ナオミ・クライン著『ショック・ドクトリン』(上下)を正月休みの読書候補として購入したのだが、はたして読み切れるかどうか。
心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつくれば
なかなか年の瀬という感じがしないのだが、周囲が「仕事納めだ」「その前に原稿あげてよ」などと騒ぐので、そんな気分になってきた。明日朝までに仕事を2本片付ければ、それで放免。晦日からは実家に帰省予定。
ただ年明けからは仕事やら、NPOやらでまた忙しくなりそうだ。実家ではのんびりするが、3日には東京に戻ってこないともろもろ準備が間に合わない。
ナオミ・クライン著『ショック・ドクトリン』(上下)を正月休みの読書候補として購入したのだが、はたして読み切れるかどうか。
年の瀬の東京は妙に天気がよい。むろん寒くはあるのだが、陽射しは眩しいくらい。日曜日、早朝から散歩する気になったのは久しぶりだ。
とりあえず春日通りを歩き、教育大跡の「教育の森公園」まで。園内に置かれている彫刻、朝倉響子の「フィオーナとアリアン」をあらためて観賞。若い女性の伸びやかな肢体が永遠の時を刻む。どっちが「フィオーナ」でどっちが「アリアン」なのか。朝倉響子は言うまでもなく、朝倉文夫と朝倉摂の次女。存命なら86歳になる。
それから、不忍通り〜白山というコース。白山通り沿いにある「紙舗・直」という店に初めて入った。手すきの和紙、その和紙で作ったホルスト・ヤンセンという人の随筆集など。なんかすごい高品質のものを見たような気がした。
この日記、8月末以来更新してなかった。
というのが書けない/書かない理由だ。
このままだと無言のまま年を越しそうなので、とりあえず更新しておく。
6月にとある雑誌で、万年筆と原稿用紙の取材があって、中古品の修理やオリジナル万年筆の販売を手がける職人さんの店などを取材した。万年筆はたしか高校時代に1本持っていたと思うのだが、ほとんど使うことがなかったし、愛着を覚えた記憶もない。仕事でも使わなかった。手書き時代に原稿用紙に書くのは、もっぱら、鉛筆、ボールペン、細字のサインペンだった。
しかし、年齢のなせる技だろうか、デジタル時代にこういうアナログな筆記具(とはいえ19世紀には画期的な新技術であったわけだが)もいいかなと思うようになった。
万年筆への志向性が潜在的になかったわけではない。もともと文具店巡りは嫌いではないし、ドイツのMが帰国したときも、土産にと所望したのはファーバーカステルの初心者向け万年筆だった。
ただ、自分が買うとなると躊躇した。私の場合、それがなければ困るというものではないし、いい物は結構なお値段がするし、手入れが面倒そうだしと、なんだがジジむさいしと、買わない理由は山ほどあった。そうした言い訳が、潜在的な志向を無意識のうちに押さえつけていたのだろう。その重しが最近少し外れた。
有名文具店に勤める友人のツテで Pilot の CUSTOM 743 を買ったのが、7月中旬のこと。がっしりとした軸の、いかにも「ザ・万年筆」というべき古典的なデザインである。太字のほうがサラサラ書けそうだったので、ペン先サイズは「B」にした。
買ったはいいが、書くべき対象がない。そもそも大量に手書きで書くのは、仕事の取材時のメモなのだが、これにはここ数年お気に入りのジェルインクのボールペン(ZEBRA の SARARA)があって、これを万年筆で代替するのは、いくつかの理由で忌避したいところだ。となると、日記でも書くしかないかと思って、原稿用紙のマス目を印刷した日記帳をわざわざ購入し、そこにシコシコと日記を付け始めた。
万年筆の味わいはいい。ワープロと比べ文章を推敲するのは面倒だが、そのぶんペン先に思考を集中するようになる。ふと立ち止まり、考えを巡らし、さらに先に進む。インクの流れと思考の流れが行きつ戻りつしながら、次第に一体化するような感覚がある。そこには静謐な時間が漂う。ただ、万年筆を使うようになって漢字の相当数を書けなくなっていることに気づいた。20年以上、ワープロでものを書いていると、読めて、打てても、書けなくなるのだ。文字の記憶は手指によって再生産されるのだと、あらためて思う。
世の中にはマニアという人たちがいて、万年筆もまたその愛玩物の一つだ。今回あらためて知ることになったのだが、世に万年筆の蘊蓄を語るサイトのいかに多いことか。少なからずいま万年筆はブームなのだ。先の取材でも、インターネットの発達で、売上げが減るかと思ったら、むしろネットでその存在を知った遠方の客からの注文が増えたと、万年筆屋さんも原稿用紙屋さんも異口同音に語っていた。
万年筆専門ではないが、かなりのスペースをそれに割いているムックも、ほぼ定期刊行で発行されている。なかでも、えい出版『趣味の文具箱』はよい雑誌だ。内外のブランド万年筆を美しい画像と詳細な記事で紹介している。万年筆は知的で美しいオブジェであることを、この雑誌によって再認識させられた。しばらくの間、この雑誌のバックナンバーを集めては、「おお、イタリアにはこんな万年筆があるのか」などと驚き、コレクター所有のビンテージものを羨ましく眺めたりしていた。
1本目を買っても、いや買ったからこそ、また次が欲しくなる。蒐集というのはそういうものだ。8月には、2本目の万年筆を、今度は通販で購入した。Pelikan Souverän M800。ひと月前までは全くその存在を知らなかったが、舶来万年筆の王道ともいえる古典的名作なのだという。縞模様のカラーには何種類かあるが、丸善で現物を見て、緑がいちばん気に入った。これでこの前、四半世紀ぶりぐらいに、長い手書きの手紙を、ロイヤル・ブルーのインクでしたためて、人に送った。
いま私は妙なものの蒐集癖のとば口に立っているのだろうか。お金が余っているわけではないから、このペースで3万も5万もする万年筆を毎月買い続けるわけにはいかない。肝心の文章の内容の前に、ああでもない、こうでもないと筆ばかりを選んだりするのは、私の仕事の場合、あまりみっともいいこととは思えない。
しかし、万年筆には得も言われぬ魅力があることはたしかだ。所有欲を微妙にくすぐる魔力を備えた不思議な造物である。はや、3本目が欲しくなっていることを、私は率直に告白しなければならない。
大文字の護摩木って、以前にもこのように組織的に集められるという例があったのだろうか。市民が一人ひとり受付所まで出向いて、名前などを書いて納めるというのがふつうのことのように思われるのだが……。もともと今回の計画自体が極めて例外的なものだったのではないか。そこには一種のパフォーマンス臭さ、イベント臭さが漂うのである。
とはいえ、震災の犠牲者に鎮魂の意を表そうと、保存会があえて例外を決意したのであれば、何があっても中止すべきではなかった。いかなる妨害や風評にも負けてはいけなかった。「五山送り火」を神聖なものと考えるのであればなおさら、その信念を貫くべきであった。これでは梯子をかけておいて、それを外すという非道のそしりは免れまい。保存会は風評加害に荷担したと言われても仕方がない。
保存会に寄せられた市民の放射能拡散を憂う声も、まったく科学的合理性を欠いたものである。合理性を欠いたところで根を張るのは、一種の「清潔という病」である。もっといえば、他者の汚れを見てみないふりをして、自分さえ清浄であればよしとする、傲慢さだ。精神的排外主義という言葉を当ててもいい。
韓流エンタティンメントが氾濫するフジテレビへの抗議活動なるものとも、通底する問題がある。これは頭のとち狂った自民族中心主義者による、民族排外主義以外の何ものでもないが、メンタリティとして共通するのは、他民族の文化を汚れたものとみなし、その血を頑ななまでに容れまいとする「純化という病」だ。戦間期のドイツでもそうした病は広く蔓延した。それがファシズムの温床になった。
そもそも文化というのは、歴史的な形成物なのである。平和時の交流や交易はもとより、戦争や植民地主義といった暴力を背景とした出会いもまた、反面では異文化の混淆、混じり合いを生むものである。それによって異文化は交錯し、結果として一つの地域の文化は多様化せざるをえないのだ。人が動けば文化は変容する。植民地経営のために宗主国の文化を押しつけようとすればするほど、被植民地の文化は本国に環流せざるをえないのだ。
本来、国境などを越えて容易に多様化される文化を、一民族固有のものに押し留め、ナショナルな文化に代替させようとするのは、一種のイデオロギー的操作である。固有なものなど、実は何もないのだ。
昨日の朝日新聞夕刊で読んだ、小川糸という作家のエッセーが、私の何かと符合した。
作家は、この夏をベルリンで過ごしているらしい。
「ベルリンは、緑あふれる美しい町。不慣れな環境で作ったぎこちない料理も、趣のある建物や見事な街路樹を見ながら食するだけで、おいしくなる。街頭で奏でられるストリートミュージシャンの音色を耳に、異国の夜はゆるゆると更けていくのである」
2006年の夏に私もベルリンにいて、似たような体験をした。都市の生活はどの国だって窮屈なものだが、それでもあえて人が都市に住むのは、趣のある都市文化という、田舎では得られないオマケがあるからだ。ベルリンでは夏の薄暗い闇にさえ、文化の色気のようなものがあった。繁栄と退廃と、モダニズムと廃墟と、尋常ならざる歴史の変動を耐えてきた都市ならではがもつ「したたかさ」のようなものが、そこにはあった。
世界を旅したアメリカの作家、ポール・セローは、かつて東京があまりに効率的なのに感服して「これは都会じゃない、機械だ」と評したことがある、という。
それはけっして誉め言葉ではない。私も似たような感じがすることがある。東京は世界有数の機能的大都市ではあるが、無名の群衆が住むことによって醸し出される都市的情緒というものは、年々薄くなっているような気がする。
そもそも東京は、もはやベルリンのようなコンパクト・シティではない。資本がつくったメガロポリス。緊密な交通ネットワークは関東平野を覆い尽くし、どこからが東京で、どこからがそうでないか、その境界は不分明だ。
都市的情緒を味わうにしても、それなりの金が要る。どこぞのお洒落なバーで高い値段をふっかけられ、明日も仕事がある身にとっては、汗蒸した終電のある間に帰ってこなくてはならない。汗くさいのは風土の関係で仕方がないけれども、それ以上に水くさく、金の匂いばかりがする大都会の夏。都市栄えて文化果つるの、寂しい夜だ。
もちろん、そういう薄情な街に住みながらも、見知らぬ人と人とがつながるために、熱心に闇夜を歩いていた時期が、私にもあった。20代の初めのころまで。飲み会があるぞと言われれば、どこにでも出かけた。そこで知らない人とたくさん出会った。今よりもずっとフットワークが軽かった。
そう考えてみれば、東京が寂しいのは、たんに歳を取ったというにすぎないのかもしれない。実は都市の問題ではなく、私の歳の問題なのか……。
Berlin, July,2006
高校時代の友人に、福島県で校長先生をしながら詩を書き続けている人がいる。彼の学校は、原発事故からの避難対象地区にあった。生徒も教師も四散した。今は県内の別の学校に間借りして、なんとか授業を再開している。その人が『現代詩手帖』2011年5月号に書いた詩をめぐって、一つの感慨が生まれた。ここでいう「戦後」に生まれるべき「詩」とは、「文学」一般へと敷衍してもいいし、あるいは映画、美術、その他のアートと言いかえてもよいのだと思う。
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このたびの東日本大震災を、原発事故を含めて「第二の戦後」あるいは、明治維新を数に入れて、日本における「第三の転換期」と呼ぶ人たちがいる。高度化したテクノロジー社会(と思っていたもの)が、自然の暴威の前にもろくも崩れ去ったショックを、文明論的な意味での転変と呼びたい気持ちはわからないでもない。
もし今が第二の戦後だとすれば、「戦後詩」は再び現れるのかというのが問題だ。
西洋近代の精神文化を注入した明治維新と文明開化は、近代詩という新しい詩型を日本に育んだ。太平洋戦争もまた、日本人が近代国民国家の一員として遭遇した史上最大の「災厄」であったがゆえに、復員した、あるいは銃後にいた若い詩人たちから、戦後、堰を切ったように言葉があふれ出た。
それはたんに戦争の犯罪性を弾劾するのではなく、廃墟の中で不定型にさまよう人々の正気と狂気を言葉につなぎ止めようという試みでもあって、詩人たちに、近代社会の多様な形相に応じるための、新しい詩型を与えた。
詩はもとより個人的なものであるから、詩の主題はさまざまだった。戦後になって大量に生まれたサラリーマンの哀感を歌う詩もあった。その一方で、自らの被爆体験にこだわりつづける原爆詩というものもあった。ただ、社会がガラガラポンになったような戦後の解放感のなかで、しかしそれでもなお空虚な現実の前で、新しい言葉で詩を書かなければならないという、詩人たちの切実感には共通のものがあったように思う。
大震災の後に、そのような新しい詩を獲得することが私たちにはたして可能なのか、というのが重ねての問いだ。
震災もまた一種の戦争のようなものかもしれない。震災を間近に体験した詩人たちの新しい言葉は、もしかすると震災「後」にしか獲得できないものなのかもしれない。ただ、「震災後」はいつになったら訪れるのか、私たちに。
原発震災は終わりが見えない。日常にはたしかに切れ目が入ったのだが、その引き裂かれた切れ目はずるずるといまもなお大地を曖昧に浸食しつづけている。
齋藤貢は詩篇「南相馬市小高の地から」のなかで、旧約聖書の物語を引きながら「荒野をさまよう私たちの旅」と表現する。文字通り、それはたびたびの避難を指してはいるのだろうが、それ以上に「さまよう」としか表現できない、彼の宙ぶらりんの状態を感じるのだ。
津波の引いた後に見えているのは「果てしない流浪の荒野」であるというのは、示唆的だ。ノアの方舟の伝説でも、漂流の後七日目の鳩は、オリーブの葉を加えて船に戻ってきた。かすかな希望がそこにはあった。その希望さえ、今はないというのか。
目の前で津波に流された人々の遺体は、泥の底に埋もれたままだろう。洪水が収まると「すべての人間は粘土に変わっていた」(『ギルガメシュ叙事詩』)のだ。生き残ったものは、泥の上に墓標を立ててやろうにも、そこに戻ることができない。家々の原型は保たれていて、街並みは残っていても、人がいない。明確な欠損を埋めるのは、ガイガー=ミュラー計数管の騒々しいアラーム音ばかりだ。人々はその音に惹かれ、同時にそれを恐れる。故郷喪失がこのような形で現実のものとなることを、受け入れられないままに異郷の土地をさまよう。
この彷徨する感覚は、「現代詩手帖」のなかの他の詩人のいくつかの作品にも、共通につきまとうものだ。これは重要な感覚だ。文明開化が始まったわけでもなく、戦争が終結したわけでもない。何かの終わりのようでもあるが、何かの始まりのようにも感じられない。それがこのたびの大震災の詩的なイメージの根幹に横たわる、詩人たちの「違和感」なのだ。
その違和感は、瓦礫に舞い上がる砂塵のようなものであればまだしも、放射性物質の分子サイズの塵のように目に見えないから、払い落とすこともままならない。
私はしかし、この肌にまとわりつく違和感こそが詩の原点だろうとは思う。今はまだそこに留まり、深く潜り込むしか、新しい言葉は得られないのではないかと思う。
だからあえて言えば、齋藤が「明けない夜はない」というクリシェ(常套句)で詩をまとめることに、少し失望を感じたのだ。それは歌謡曲のフレーズだ。いや、中島みゆきさえ、そんなフレーズは使わない。
どこからかオリーブの葉がもたらされることを願って、そう書かずにいられない心情は慮るが、詩はたんなる心情の吐露ではあるまい。
ついでにいえば「明けない夜はない」は和合亮一の常套句でもある。和合の詩は、ボクシングのジャブのように言葉がはじけるが、はじけた先にすぐ消えてしまう。ツィッターなどを使うからだ。言葉を定着させず、何かしらの運動のように吐き続けることをあえて選んだのだとすれば、それはそれで方法論としてはありうることだと思うが、私はその方法について、まだ評価を定めることができない。
角田光代に『八日目の蝉(セミ)』という小説があって、そのタイトルの意味は、「他の蝉は死んだのにたったひとり生き残ってしまった八日目の蝉は、ほかの蝉が見られなったものを見られる」という小説内の言葉から来ているのだという。
彷徨いの地に、七日目の鳩は戻ってこない。しかし、生き残った人々は八日目の蝉のように、見るべきものは見なければならない。おまえは何を見たのか。泥と放射能の堆積の底から、どんな結晶を、どんな言葉を拾ったのか。私はそれを齋藤のこれからの詩に期待する。そのとききっと、もう一つの「戦後詩」が生まれているのだと思うから。
今年の夏は、どんな仕事でも、スーツにネクタイは絶対止めよう。というか、ムリ。
そこでサマージャケットを2着新調。通りかかった近所のアオキが改装キャンペーンで、ジャケット半額だったんので。近所のアオキは四半期に一度はこんなキャンペーンをやっていて、原価がいくらかよくわからん店なのではあるが。
6.11に新宿中央公園を出発地に、東口アルタ前で解散する「6.11新宿 原発やめろデモ」というのに参加してきた。
もともと高円寺のリサイクルショップの店主がTwitterで広めたデモで、旧来の反核運動とは様相を異にして、ロック、パンク、ラップ系のサウンド・カーを先頭に鐘太鼓で練り歩くスタイルのパレード。20代〜30代が圧倒的に多い。その様子は、Youtubeにもたくさんアップされている。
ただこの日は、「脱原発100万人アクション」の一環ということで、共産党や全学連(民青系)、独立系労組(フリーターの労組とか)などの幟も目立ち、旧来勢力と新規勢力の合体という印象だった。主催者発表では参加者約2万人。2万は大げさだとしても、1万人以上はたしかにいたと思う。
俺は、40歳前後のデザイナー、カメラマンといったカタカナ系職種の連中に誘われての2回目の参加だった。主張は超シンプルで「原発止めろ」「放射能怖い」の一点。代替エネルギーどうすんだとか、低レベル放射線については色々な議論があって……うんぬんという細かい話は抜き。
むろん背景には「なんでこうなっちまったんだあ」という清志郎風の不安と怒りがあるけれども、街頭デモに通有の日頃の憂さ晴らしという側面もないではない。
俺はそれでもいいと思う。テーマがなんであれ、街頭で若者が抗議行動を起こさない国になんて、未来はないから。
6.11で興味があったのは、デモに慶応の社会学者の小熊英二が子連れで参加していたこと。彼のスタート地点での挨拶は面白かった。脱原発に転じた保守派の西尾幹二の発言を引きながら、「民主主義と原発は両立しない」ことを鋭く指摘していた。
小熊英二の本は、全部並べると50cm幅をゆうに越えるぐらい、分厚いので有名。俺はそのほとんどを所蔵し、その多くを読んできた。ナマの小熊英二を見るのは初めてだが、アジテーションが上手いのに驚いた。小熊が脱原発を主張するのは全く違和感がないが、それでもあれだけ浩瀚な書物を書き表す人が、街頭でも行動するというのはちょっと意外だった。著書『1968』でベ平連の活動を相対的に高く評価していた人だから、このデモにベ平連的なもの感じて、コミットすることを決意したのかもしれない。
若者の憂さ晴らし的な面もあると書いたが、最近のこの手のデモでは缶ビールや缶チューハイを飲みながら練り歩くというのもふつうの光景になっている。我々の時代の学生デモでは想像もできない。
別に酒飲んだっていいし、大麻やってたっていいし、そのほうがノリがいいのならそれで構わないのだが、やはり酔っ払ってしまっては困る。マッコリのボトルを片手にフラフラとなりながら、沿道の買い物客に「デモに参加しようよ」と訴えても、あんまり効果はない。どころか、逆効果だ。
解散地点のアルタ前ではビールを真ん中に車座になる人たちもいた。真面目くさる必要は全然ない。デモは苦しいより楽しいがいいに決まっている。でもね、花見酒やりたいんだったらだったら、他所でやれよ、だよな。前々回の渋谷でのデモでは逮捕者も出ている。昔は「てめえら、革命的緊張感がねえんだよ!」とどやしつけられて、「自己批判」を迫られるのがオチだったんだがなあ。
吉岡斉『原発と日本の未来』(岩波ブックレット)
「国策民営」で維持されてきた日本の原発。研究開発や損害賠償支援など政府の過保護があったから存続してきたのであって、純経済的に自由競争すればその将来はなく、黙っていても脱原発に向かうと筆者は説く。原発を推進するのであれ、そこから脱するのであれ、今後のエネルギー政策を考えるうえで必読の書だと思う。
この本を読んで国家体制と原子力発電の関係ということにあらためて思いを巡らせた。
特に、右の人はなぜ原発に呪縛されるのか。石原四選の報を聞きながら、その論理をこの間、考えていた。
「核兵器をもたない国で、ウラン濃縮、再処理、高速増殖炉などの軍事転用可能性のある核技術(機微核技術というらしい)をもつのは日本だけ」だと筆者は言う。
例えば、たとえ効率悪くても六カ所再処理工場を動かすのは、この機微技術を保持しておきたいからだ。核武装論者が原発システムに反対しないのは当然のことである。
むろんエネルギー安全保障という観点からも原発推進の定理は導かれる。しかし、未だ冷戦思考を脱せないナショナリストには、核技術を止めたら国家安全保障が根底から脅かされるという恐怖心があって、それが原発推進のモチベーションになっているのだ。
原発災害は彼らにとって想定内の事象である。多少の人々を犠牲にしても、国家を守るために彼らは原発を止めることはないだろう。ナショナリズムの本質は、国家の前に人民ナシ、なのだから。
「原子力委員会の新大綱策定会議には原子力に批判的な委員が若干名入っていることから、手放しの暴走状態にはなっていないが、推進以外の結論は出ない。そもそも原子力基本法とこれに基づく原子力委員会設置法が原子力推進をうたっているからである」(伴英幸・「世界」2011/5月号.P173)
新大綱策定会議のメンバーは原発推進の人だけじゃないよとポーズを示すが、その会議設置を担保する法律の狙いそのものが原子力推進では、それ以外の結論は出ようがないということ。それでも会議に出て反対派が意見を述べることは意味があると考えているのだろう。伴氏は原子力情報資料室の共同代表。大綱・新大綱策定会議に委員として参加。著書に『原子力政策大綱批判』がある。
友人のお見舞いメールに答えて、先ほど送ったメールから。
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仕事の段取りと高速バスの予約がなんとかとれたので、30日に多賀城に帰ります。
向こうは水道の断水が4月上旬までは続く見込み。トイレと風呂が課題です。あと、食い物も避難所の配給だけでは心許ない。スーパーが店頭販売を再開させたけれど、寒風のなか何時間も立って待つのは老人には辛いです。胃薬、精神安定剤など常用薬も切れそうだ、とのこと。
宮城県は地震多発地帯。あれだけの津波は想定外としても、大地震は水道幹線を切断するということは十分わかっていたはずなのに、このあたりの評価・対策はどうなっていたんだろうなと今さらながら思います。
いわき市も心配です。知人がたくさんいます。元妻の実家も、自宅に留まっています。県外に脱出したいけれど、車のガソリンが調達できないと言っていました。
これを機に、高校卒業以来、何十年もご無沙汰していた友人と連絡を取ったりしています。
なかには南相馬市にある県立高校の校長だったやつもいます。福島第一から14kmの距離。生徒を引率しいったん避難。さらに原発建屋爆発のときに避難指示がでたけれど、情報が混乱しどっちに逃げたらいいのか判らなかったという。日頃そうした避難訓練は全然やってなかったと言ってました。
双葉町から通う生徒も半数いて、その後の町ぐるみ避難で県外に散ったため、学校再開のめどが立たず。本人はいわきに自宅があり、いったんそこに戻るも、ここも風評被害でモノがないと嘆いていました。その一方で、県外避難した人も多く、給水車の列が短くなって少し楽になったとも。
原発や放射能の怖さはたしかにあるのだけれど、今は「最悪の可能性」を言い立てるのは戦略的には考えもの。逃げろ、食うなと言えば言うほど人は遠ざかり、残された人に物資が届かなくなりますし、今後の復興のためにも益になりません。
幸い、原発は外部電源通電でこれからは落ち着くと思います。チェルノブイリにはならない。ただ、2号機も含めて廃炉前提の事故処理をしてもらわないと困ります。
今後は福島1号・2号がないとして、かつ青森・東通も含む新たな原発建設は少なくとも30年はないものとして、エネルギー計画を立てるべきです。ざっくりエネルギー2割減の社会ですかね。これを維持するためにも、水力、火力の増強も必要でしょう。CO2削減も目標値を下げざるをえません。
風力・太陽光発電も重要ですが、これら自然エネルギーは、不安定な電源のため、蓄電技術が飛躍的に発展しない限り、住宅や電気自動車利用には十分とはいうものの、これで電車や工場を安定的に動かすわけにはいかない、という現実も理解しなくてはなりません。あくまでも補助電源です。
浜岡原発をいますぐ停止しろという声もありますが、現実的に中部地方の経済をダウンさせると、東日本復興にもカネが回らないので、私は即時停止には反対です。ただ、既存原発はいずれは輪番点検し、バックアップの機構の増強など、対地震・津波対策の強化は必要でしょう。
被災地はみなどこもヒドイのだけれど、東京の人はぜひ地震+津波+原発+風評の四重苦にさらされている、いわき・浜通りの人々への支援を重点的にお願いしたいと、会う人ごとに言っています。
当面は、現地の人々の意志を尊重して、
・避難した人には避難先の確保とサポート
・止まる人には、水・ガソリン・食糧の供給
・被災地以外の人々には、現地情報の正確かつ継続的な伝達と風評の打ち消し
の3つが重要かと思われます。
いわきは一般道を通ってなんとか東京から車で行くことも可能です。今後、水道が回復して、統率の取れたボランティアが乗り込めば、風評も収まるし、県外に避難した人びとも戻ってくるでしょう。原発近傍はともかく、30km圏外は人が戻れます。そこに住んでいた人々が戻らないと復興は不可能です。
小名浜のアクアマリンふくしまの映像は、この前テレビで見ました。こんなニュースもあります。停電のため魚類が全滅。ただ、職員や客は無事だったとのこと。
八戸もひどい状況のようですが、詳しくはわかりません。
取り急ぎ、こんなところで。
朝日ニュースターの番組で言っていたのだが、ある種の世論調査では次の都知事選では石原慎太郎の四選確実とか。自民党のサーベイで、有効投票数を獲得する候補者がおらず、再選挙となる可能性が浮上した、「だからオレが出ればまた勝てる」とばかり再出馬に翻意した、その出馬理由の話だったかもしれない。
いずれにしても今回の地震を「天罰」だと表現した人である。ニュースソースの一つ毎日新聞の記事を見ても、天罰発言に至る論理の飛躍はとうてい理解の範囲を超えている。もともとこの人の小説には言葉の繊細さというものがなかった。若書きの通俗小説家が時代に押されて有名になっただけのものである。政治方面への転身は、彼のキャリアプランとしては正しい選択だった。
ただ、政治家になってもその拙い言葉使いは矯正されず、何十年にも至ってしまった。政治評論家にでもなっていれば、また一種の味になったものを、惜しいことに、というか怖ろしいことに、いまだ一線の行政の長である。もはやこの歳になれば彼の言語能力は矯正不可能というべきだ。
というわけで一都民としては、彼にもう一期、都知事をさせることは資質の面できわめて危険だと考える。次に東京直下型地震が来るよりも怖ろしいことだ。なんとしてでも彼を落とさなければならない。
ただ先の自民党のサーベイにもあるように、有力な対立候補がいないのは残念ながら認めざるをえない。そこで有権者としてはどういう行動をするべきか。一つの示唆になるのは、山口二郎氏が2007年の都知事選のときに提案した「投票日の1週間前か、4,5日前に新聞に発表される世論調査を見て、その時点で一番石原を倒すことができる可能性の高い人に票を集める」という戦略だ。
小池晃か渡辺美樹か、あるいはドクター中松か、そんなことはどうでもいいのだ。石原に勝てるなら誰でもいいという、ある意味ではやみくもの行動である。ただ、「敵の敵は味方」というのはマキャベリの時代からある政治戦略の一つで、これが有効に働く場合もある。
「選挙は結果が全て。変なアマチュアリズムではなく、戦略的投票で立ち向かうべき」という山口氏の言葉を、今回の都知事選では私は念頭に置くことにする。
もちろん被災地区全体が問題なのだが、地震+津波に加えて、原発災害という三重苦に見舞われている福島県浜通り地方が、いま喫緊の問題だ。屋内外避難の対象地域だけでなく、その周辺部でもいま逃避パニックが起きている。
そのうちの「いわき市」は私が生まれ、18歳まで育った第一の故郷だ。知人・友人もたくさん住んでいる。市内の友人たちからの直接・間接情報のなかには、昨日はいわき市の「人口の4分の1」が、今日は「約半分弱」が、県外に脱出したというものがあった。
もちろん誰も数字をカウントしたわけではないので、幹線道路の混み具合や閑散とした街並みを見ての感想だとは思う。ちなみにいわき市は、34万人と仙台に次いで人口の多い、東北の中核都市である。もし、いわき市の大半と、すでに炉心から30kmまでに避難している地域の人々の全体が県境を越えるとなれば、その総数は50万人にも達する。
脱出はやむえない。「放射能被害は微量」という科学技術的な判断のレベルとはまた違う、人間の本能としての行動なのだ。誰も、それを責めることも、止めることもできない。
しかし、50万人の被災者を安全に収容するのは並大抵のことではない。親戚縁者を頼れる人はいいが、そうではない人もたくさんいる。国および周辺自治体、企業は、避難者収容のための対策を急ぐべきだ。
私の地元・文京区にある東京ドームでのプロ野球開幕には反対しないが、そのような民間施設も、場合によっては一時避難所として活用することも検討してほしい。
同時に、この地域に残る人々への、水、食料、ガソリンなどの物的支援、および放射線被害対策を含む医療支援も緊急を要する。
聞くところによれば、「福島原発事故による放射線被曝をおそれて、タンクローリーが郡山市でストップする事態となり、いわき市から運転手を派遣し、ようやくガソリンがいわき市に運ばれ始め」たということだ(いわき市議会議員・佐藤和良氏のブログ)
原発からは放射能が漏れていることは事実だが、市内に入ると人がすぐ倒れるという話ではない。風評を恐れてはいけない。
地震発生以来、連絡が途絶えていた実家(多賀城市高崎二丁目)の母からようやく連絡がありました。無事だが家の中はめちゃくちゃ。電波か電源事情ですぐに切れ、再ダイヤルも通じなくなったのでそれ以上の詳細は不明ですが、ともあれひと安心。ご支援感謝します。
昨日の夜、福島出身の友と飲んだんだ。三陸産の刺身を食った。これからもう食えないかと思いながら、蝦夷以来の東北の歴史を語りあった。
かつて飢餓の淵で身売りを選んだ娘たちがいた。就職列車で運ばれ、そのまま大都市に下積みされた人々がいた。今だってそうだ。
貧しいがゆえに原発を受け入れたのは誰だったか。それゆえに被曝し、いま流浪の民となりつつあるのは誰なのか。カメラの前で訥々と被害を語る人々よ。私と同じ訛りの東北の民たちよ。
もうその訛りを恥じるな。それは苦難を引き受けてこの国を支えた、勇者の言葉だ。死んだ人のことはもう想うな。生きている人が生き延びて、みちのくの歴史を語り継げ。
宮城県多賀城市がホームページを更新。
津波で、多賀城市内の3分の1が冠水しています。そのため、電話、メール、インターネットが全くつながらないので、助けを発信することができません。 また、電気、水が使えず、困っています。
・避難をしている人が1万人ほどいます。
・未だに水がひかず、300人位孤立しています。
・まだ救助できない状況なので、行方不明者の把握が不明です。死者も数多くいる見込みです。
多賀城在住者が13日の市内の様子を写真で報告。(合い言葉は「多賀城」)。
津波は国道45号線を越え、多数の車をなぎ倒したことがわかるが、今は水が引いている。沿岸部のコンビナート火災の黒煙も映っている。ただ、写真で見る限り大規模な建物の倒壊はない。人々が歩いており、車も渋滞ではあるが動いている模様。ライフラインは止まっているものの、壊滅的打撃というほどではないようだ。
新潟在住の友人のS氏が、宮城県名取市在住の母親の安否を気遣い、新潟から車で名取市まで入った状況のレポートです。本人の了承のうえ、以下一部を紹介します。
■新潟県村上市から宮城県名取市までの道路状況
および名取市田高字南209のマンションの被害状況
まず新潟県村上市より土曜日の12:30頃宮城に向け出発する。ネットで一番ネックな月山道路が通じていることを確認し、考えても仕方ないので車のラジオを付けて出発。村上から鶴岡に向かう。ほぼ通常の道路状況。
鶴岡より山形高速道路に入る。途中信号が消えているので何故か不思議だったが、考えて見れば地震だった。
鶴岡より湯殿山インタまではごく普通の道路状況。月山インタは閉鎖、ここより国道112号線に降りる。宮城へ宮城へ辿っていく。途中286号線へと移る。笹谷峠は一般道では無理なのでここだけ山形道を通る。関山インタで一般道。(略)宮城へ向かっていると「大河原まで*キロ」という表示。そこへ向かって車を走らせると、国道4号線へ合流。この道路は海から近いので通行止め、あるいはひどい渋滞を覚悟していたのだが殆ど渋滞はない。
名取まで車を走らせると、時々渋滞になるのは左側にガソリンスタンドがあってそのためか、大きな交差点になっているかだった。時計を見るとほぼ5時に近かった。
名取に近づくが、あまり被害の目立った状況は見えなかった。そしてわがマンションである!まわりが水で近づくのもできない、というのを考えたのがまったく大丈夫。顔見知りの友人が火をおこしたりしている。
エレベーターはもちろんダメ。5階まで階段を上がる。ドアを開け「ただいま」と声を掛けると、奥から母親の声がした。
すぐとってがえしで帰ることも考えたのだが、月山道路が夜間通行止めなのであきらめた。母を手伝って家の中の片付け。かなり暗いので、そこそこにして食事を食べる。私が途中セブンイレブンで買ってきたおにぎりとおちゃを摂る。母が食器を洗おうとして蛇口をついひねるが水は出ない。
ラジオは引っ切り無しに地震のことばかり。9時過ぎに寝てしまったが、外は真っ暗、ところどころ信号の明かりが。
私はベッドが家具に下敷きになってしまったのでソファに寝た。
次の日、こっぱやく目が覚めた私は13日午前4時ころ発生した余震を経験。「早く逃げた方がいいかも」荷物をまとめる。ところが猫がどこかに行ってしまって探せど見つからない。「猫はあきらめて行こうか」と言ったとたんどこからか出てくる。「よかったよかった」
なお、壊滅状態になった名取市閖上(ゆりあげ)は私のマンションから4~5キロである。私は怖いので観にいきませんでした。閖上は名取市の市長さんの実家があるところだ。どうなってるのか。
現時点でまだ多賀城市の母の安否が確認できない。